サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

あらゆる機械は天体運動を模した機械の末裔

 コンピュータや旋盤、車両などの機械は、振動もしくは回転がその心臓部である。

たとえば、デジタル化した機械は必ずクロックを刻みつつ作動する。

 これにはなんの不思議もない。

 機械の重要な中継点は歯車式時計であろう。その脱進機こそは時の刻みだった。

 時代をさらに遡行しよう。時計は、元はと言えば、天体運動を模したものであったはずだ。

 つまり、なべての機械は天体運動=コスモスに向けられた人類の模倣衝動に起因していると思われる。

 この説をいいだしたのはバナールか、ニーダムだか、今は詳らかにできないが、大きな表現の差異はないはずだ。

 ここで、エルンスト・ユンガーを引用しておこう。

歯車時計は、地球的時計でも宇宙的時計でもない。

 典拠である『砂時計の書』ではこの人工化し矮小化した時間に精神が隷属してゆく近代性に疑問を投げている。

 近代の機械はコスモスから生じたはずが、その本来性から外れてしまった。

今では煉獄の住民たちの見張り番になっている。

普遍論争と夫婦喧嘩の火だね

「あなたは私のことを分かってくれない」と夫婦喧嘩で女性から指摘される男性は多いことであろう。
 そうでなくとも、「おまえは俺を理解していない」と詰め寄る友人との仲たがいや
「クライアントの都合を把握していないで企画をつくるな」というビジネス・バージョンもある。
 心理学や哲学の本を読んで、おまけに「人間とはなにか」をしきりに考える自分としては知識と実践が不釣り合いなのをおもわず反省してしまう。
 だが、反省するのはなみの常識人でもできるのだ。
 ここは一歩さがって、「普遍論争」という視点からこの理解不足をみつめなおしてもいいだろう。
 略して、対人理解の齟齬と呼ぶことにする。
 あらかじめ注意しておくけれど、本ブログの結論は個別の齟齬を解決することにはつながらない。下手すると拗(こじ)らせるだけであろう。

 この齟齬で問われるべきことは普遍と個体、どちらが実在か、真理を担うのはどちらかだ。
 カミさんや友人、クライアントの不満は個々のケースである。しかし、自分としては人間という類(普遍)をつねに考察しており、その普遍的な性質(本質)をいつも相手取っている。それが理性的な態度というスタンスだ(これが間違いの火だねであるけど)
 それに対して、カミさんや友人という個体は重要な存在ではあるが、「本質」を分有しているだけであり、時々刻々とその性質や状態が揺れ動く。こうした変化や揺らぎは、なかなか十分にとらえることが難しい。

 中世のスコラ哲学では「個別者を処理するのは感覚であり、普遍を処理するのは知性である」と八木雄二は指摘しているくらいだ。
 上のような状況で、「普遍性を明らかにするのが自分の立場だ」と弁明してみたら、どうであろうか?
 いや、もちろん、冗談だ。それが通用するはずもない。
 日々の生活での人間関係のもつれには「普遍性」は役に立たない。しかあれど、普遍と個別に対してスタンスの差はプラトンアリストテレスの哲学的立場の差までさかのぼるほど根は深いことは覚えておいてもいい。
 個々のケースは「感覚的」であり「騙されやすい」とプラトンは考えていた。アリストテレス哲学は「個々のケースの実体性」を重視し、その背後にある普遍的なものを分析する方向性を示した。より実践的かつ科学的な態度であると評される所以だ。

 だが、生涯未婚であったプラトンはあまり参考にならないとして、アリストテレスは伝説によれば始終カミさんの尻に敷かれていたとされる。弁論で対抗することはアリストテレスも諦めて、カミさんの言いなりなるのが賢者の道だとしたのであろう。
 夫婦喧嘩は古代哲学にまで及ぶ根深い差異を歴史的再演していると考えれば、そして大哲学者が尻に敷かれていたとするならば、犬も食わない論争をヒートさせることなくアリストテレス的に耐えることに意味があるのだろう。
 

【参考文献】

夫婦喧嘩の分析的な入門書として下記を取り上げる人は皆無であろう。

 

 

 

より深く知りたい人にはこの本が歴史的に詳しい。

 

 

 この本は希少なテーマ「アリストテレスの恐妻ぶり」を取り上げたものだが、古すぎて誰も読まなくなっているようです。

 

なぜ、大型物流センターで火災が多いのか?

 本日、2022年8月14日に茨城県守山市で大型物流センターが火災となった。それをきっかけにツラツラと推測をまとめてみた。

 個人的に気になるのだが、最新の防火設備を備えているはずの物流センターが延焼する事件は年に一回は起きているように思える。

 2017年の「ASKUL Logi PARK 首都圏」では4万5000平方メートル焼失。例のアスクルの倉庫だ。最大級の倉庫火災であったと思う。

 2018年10月には愛知県小牧市国盛化学本社工場の倉庫から出火し、30時間以上たってから鎮火した。

 2019年2月に東京都大田区マルハニチロ物流センターが延焼し、作業員3名死亡。原因は溶接作業の失火とされている。
 2020年4月のジョインテックス東北センター火災はPLUSの配送センターであり、東北エリアに影響があった。
 2021年12月には大阪市此花区にある日立物流西日本物流センターでの火災は1万平方メートル以上が燃えた。医薬品物流に影響が出た。
 2022年6月には茨城県「SBSフレック」で約7300平方メートル焼失。こちらは食料倉庫である。

 いずれも相当な規模の火災である。なにが、原因しているのであろうか?

 それなりに資本のある企業が所有する物流拠点であるので、防火設備は標準的であろう。価値ある備蓄品の保管場所であるからには手抜き工事や管理ミスもそうそうあるまいと思うのだ。

 素人考えでは、こうした施設は内部面積が広くて無人の場所が多い特性が挙げらる。備蓄品が天井まで積み上げられ、そのピッキングは機械による無人化(いわゆるマテハン自動化)が進んでいる。備蓄品のせいで監視カメラの死角が多いわけだ。搬送機械の配線とアクチュエータが至るところにあることから、その不良が火災につながる可能性も高いだろう。

 初期消火活動が遅延する要因がいくつもあるとして、消防法が定める標準的な防火設備でカバーできないと指摘する人もいる。窓が少ない構造が消火活動を阻害するという声もあるが、それは結果論かもしれない。

 火災とは異なるのだが、米国のトルネード被害でアマゾンの物流センタで多数の死傷者が出た事件が思い出される。2020年12月イリノイ州エドワーズビルにおける天災だが、6人以上の死傷者が出た。

 こうした状況をまとめてみよう。

 商品在庫を集約化した物流施設は自動化機械の塊になる。巨大装置産業だ。そして、24時間フル稼働が原則になりつつある。設備の保守もその合間に行うわけであるから、こうした先進的な倉庫のマテハン装置のメンテの質も維持が困難になることが想像される。

 集中化と自動化とフル操業が物流センタの災害リスクを増やしているという可能性はないであろうか?

コロナ(covid-19)とスペイン風邪の比較

 マルクスは『歴史は繰り返す。最初は悲劇だが、二番目はバロディとして』といった。これはフランス史でのナポレオン三世の台頭についての政治的発言だ。

 日本の漫画『ルパン三世』については至言であろうが、今次のコロナについて当たっているわけでもないだろう。

 20世紀初頭のスペイン風邪が今回のパンデミックと比較される。

推計では全世界で5億人が感染し、5000万人以上が犠牲になったとされている。

ja.wikipedia.org

 時系列的には1918年から1920年の間が、その感染期間とされている。三回のピークがあり、第二波が最大の死者数をもたらしている。現在も流行を繰り返すA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)の祖型であるとされる。コロナ型のウィルスではない。

 

 コロナに関して、ある程度振り返りが可能な時点にきている。

2019年3月の発生から2022年8月初旬にいたる、世界での死者数推移は下図だ。

 

 第一波は2020年4月、第二波は2021年1月、第三波は2022年2月あたりとしていいだろう。もっと細分化して、識別できるピークがあるのは確かだが。

 2022年8月で再び上昇の兆候はあるものの2020年4月から2022年3月までの高レベルに達する可能性は少ないだろう。2022年5月で生じた底は、おそらく集団免疫とワクチンの効果によるものであろう。感染力の強い変異種が出てきている8月の上昇はそれほどの爆発力はないといえる。

 こうしてみるとスペイン風邪とおおまかに似たような推移を示したと後世の歴史家は語るようになるかもしれない。

 つまり、ローマの歴史家のクルチュウス=ルーフスの名言、『歴史は繰り返す』というオリジナルを引用することになるだろう。

 2022年8月時点ではCOVID-19は6億人感染し、640万人が犠牲となっている。

 規模感ではスペイン風邪並みとなったしまった。たしかに、mRNAワクチンは素晴らしい技術である。にもかかわらず、21世紀になって衛生状態、栄養状態が改善し、医療技術が格段に進歩し、国際協力も緊密であると自負していたはずなのにこのような結果であるということは、現代文明の限界ということを再認識しておいたほうがいいだろう。

 

 

 

 

脳への思考モード多元化の導入について(スペキュレーティブ・ファビュレーション)

 見回せば、いたるところ青山ならぬ、多種多様で高品質なコンテンツありのデジタルワールドに我らは暮らしている。

 かつてクリストファー・プリーストの『限りない夏』なる好短編は青春のピーク体験を永遠化するテーマを扱っていた。時間をくりぬき、至福の瞬間のスナップショットを残す謎の種族の話しだっかと記憶する。

 ゲーテの『ファウスト』の印象深いラストシーンの叫び「時よ、止まれ!お前は美しい」の現代ヴァージョンだったかもしれない。
 文字通り、そうした夢を実現することは不可能事だが、このデジタルワールドのデータフローを生かしてそのヴィジョンを実装するアプローチを奇想&ラプソディ風に論じてみたい。

 絵空事かもしれないが、ひと時の夢幻郷に遊ぶのも一興であろう。

 機能拡張に向けた二つの方法論を持ち込む。一つは情報論的放埓だ。
 情報論的放埓の意味するものは、意図的かつ能動的なデータとコンテンツの享受であり、記憶する及び理解することは度外視した前向きの構えだ。
 実はこれこそこの散漫なインターネット世界での身の処し方である。SNSにははまらないことが大前提である。それは生き方を阻害する。リップマンの超他人指向を胚胎し、脳を頽廃させる。
 その真逆こそが狙いであり、それは脳の機能拡張だ。
 情報論的放埓は脳になにをもたらすか?
 限りないデータフローはチクトハイセスミではなくチクセントミハイのフロー体験であると主張したい。

 フロー体験について引用しておこう。
「個人が完全に今行っている事に夢中になり、自己意識がない中でも自分をコントロールできている感覚がある状態」

 デジタルワールドのデータフローを味わい尽くす、放埓な情報爆発によりフロー体験が生じ、それは三昧境をもたらすのだ。

 たしかに、記憶されるものはわずかかもしれぬ。ひたすら自我の高揚感を追求する。それががあればすべてよし。そのトリガーとしての残しさえあればいい。この際、ストックとしての記憶は外部化すればいいんじゃね、となる。

 自然人類学においてのスプリッターと ランパーの競合を理解したとき、高揚感があった。であるならば、スプリッターと ランパーを記憶の片隅に残せばいいい。

そんな幽(かそけ)きことだけでも脳は活性化するものだ。自分にあっては芸能界のニュースより高揚感が、至高体験もどきがそこにある。
 隠喩的には肝心の記憶に関するショートカットやポインタを持つならば、情報そのものは頭に収納しなくてもいい。  

 ショートカットとはヒント、連想用の検索語だ。つまり、覚えていなければググるのだ。そして、ショートカットやポインタはそれほどメモリ容量を必要としない。しかし、ショートカットの豊富な在庫がなければ、無意味であることを忘れてはならぬ。
 現に上述のチクセントミハイを正確に復唱できるほど脳は精密に覚えていない。けれどもNetの力でそれを呼び出すことは、ほぼ随意的に可能だ。妨げるものは知識欲と好奇心の低下だけだ。


 閑話休題。知の越境の観点でまとめてみる。これがその二だ。
 老子意味論的(Lao-tzu Semantic)に知のドメインを超越することが、老いと幼さ、熟成と未熟さを超越することにもなる。
 すなわち、老人的なものを知り尽くした視点に浸された寂びの感性世界から、幼児的なワンダーフルとフィアフルに暴露された未踏の空間世界までを切り替えられたら、ウレシイことだ。
 前者の智慧により世俗の欲得や喧騒を無視し、ぬかるみではなく軽みに生きるモードに入れる。
 後者の情動により全能性を再び甦らせ、宇宙が全体であることを全身で観取できるようになる。

  二つの方法論を掛け合わせたデジタルなフロー体験もある。ラグタイムピアノで侘び、アニメで乙女ヴォイスに青春の余情を横溢せしむる。

 上述の例だ。


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 あー例えば、この『ひらひらひらり』を味わうとき、clariSの鼻にかかった甘いヴォイスにうっとりとして逝く春の憂愁を心にリピートしてもらえれば、ふたたび君は永遠の春に立ち会っているのだ。

 


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 あわよくば人類の精神進化のプロセスも自家薬籠中のものにしたい。つまり、古代的な思考も選択できる己が領分とできれば、さらにウレシイことだ。
 古代人の脳の機能で連想されるのはジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』的な神の声を聞けた古き右脳の能力だ。いうなれば、神々の沈黙とは文明化の副作用に他ならぬ。出口王仁三郎のように近代人でも神がかりとなれるのだ。現代文明に塩漬けにされた脳でもそれは不可能事ではないのではないか?

 近代のシャーマニックボイスを聞き給え。


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 古代的感性を現代日本人は神社崇拝に残している。デジタルワールドからシャーマニックワールドまで、思考感受性モードを操れるようになれば、世界は再び多様な色彩を帯び、生が深い情趣を湛えることになるのではないか?


 この干からびた近代世界システムでよく生きる、養生することは脳の思考モードの多元化なのではないか。

 

【参考文献】

 

 

 

 

月都ハランへのボルヘス的探究

 はじめに月都ハランに触れた記述はJ.D.バナールの『人間の拡張』の1972年版の翻訳であった。もとは「賢者」バナールの物理学史講義だ。

 そこにはこう記されている。

 ここでいいたいのは、タレスは少なくとも過去200年にさかのぼる非常に長期間に日食表にもとづかねば、この予言はできなかったはずだし、しかもこの表は彼自身には用意できなかった。彼はこの表をバビロニア人から得たに違いない。ちなみに、バビロニアの天文観測はモハメッドの時代およびそれ以降まで続いたに相違ない。

 というのは、ひとつの都市ー月都ハランーが書物の民を除くすべての異教徒を襲うことを命じられていた回教徒軍から特赦を受けたからである。... しかし、ハランの人々は天文観測の書物を示すことで特赦の仲間入りができた。彼らは星と月と太陽を崇拝しつつ観測を続けた。

 月の都とは、なんともミスティックな呼称ではないか。攻撃的な回教徒たちの剣かコーラン朝貢かを免れた伝統のある文化都市が中東にあったのだ。

ハランとその住人についての次なる発見は、再び、数理系の歴史書に含まれていた。

ファン・デル・ヴェルデンの『代数学の歴史』(1985)である。

 サビ教徒ベン・クッラの業績の紹介にハランが登場する。ベン・クッラは自分には友愛数の導出アルゴリズムで既知の数学者でもある。

 ヴェルデンの引用によれば、ハラン人は本物のサビ教徒でなかった。惑星神について神殿を建立した。ハラン人の生活様式ピタゴラス主義者に似ていたという。

古代天文学についての成書というと『望遠鏡以前の天文学』となろう。

10世紀の書誌作家イブン・アン口ナディームはファザーリーがそのような器具(アストラーベのこと)を製作した最初のムスリムであると述べている。イブン・アン=ナディームはまた,当時アストロラーブの製作がハッラーン(現在のトルコとシリアの国境近くにあった中位の都市)を中心に行われ,そこから各地に広まったことも伝えている。

 案に相違して以上がすべてであった。だが高度な天球儀を製造する技術と天文学の源であったのは確かなことだ。

 

 さて、サビ教という古代宗教の名称はヒントになる。その場合に役立つのは、エリアーデの著作であろう。

 果たして、彼の『世界宗教史 第二巻』にハラン派について説明があった。

それは、天体への信仰とは別の情報を含んでいる。

ヘルメス信仰の伝播は、密儀的宗教の歴史において魅力的な部分を構成している。それはシリアとアラブの文学をとおして伝えられ、とくにメソポタミアにおけるハランのシバ人のおかげで、二世紀までイスラム世界に残っていた

その出典としては、ハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』が指示されていた。

この訳本は幸い手元にある。故 秋山さと子の訳業だ。しかし、ここで探索の筋道は断ち切られる。ハランもシバ人も訳本には出て来ないのだ!

 

 ハランの伝統は遺憾ながら1250年に断ち切られた。モンゴル騎馬民族によって徹底的に破壊されたのだ。

 

 

ja.wikipedia.org

 

 今回の書誌学的&ボルヘス的な探索では、Wikipediaと異なり、科学史的な係累があからさまにされたといえる。ハッラーンそのものの歴史ではWikipediaには劣っているものの、その科学史的な重要性は浮き彫りにできているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリカ中西部穀倉地帯 怒りの葡萄の21世紀的行方

 ジョン・スタインベックの名作『怒りの葡萄』でオーキーと呼ばれる農業からあぶれた失業者たちが職を求めてさまよう。そんな時代に起きた大平原地帯の干ばつと不毛化という危機はどう回避されたか、その問いは、自分的にはしばらく答えのないままであった。

 我ら日本人がお世話になっている食糧の供給元の一つはアメリカであり、大平原地帯以西の穀倉地帯であるのはご承知のことと思う。

 20世紀前半、つまり、1930年代にこの豊穣の地が砂塵の覆う不毛の荒れ地に変貌した。機械化に過度に依存した農民たちの過剰な生産追及の結果だったといえば、さしあたり不正確であろうと事情は飲み込めるだろう。

 この時代には700万人の農民がいたとされる。彼らの大半が農地と職を失った。奇しくも大恐慌と被っている。大平原地帯のダストボール問題は国家レベルの対策を必要としていたのだ。

 その後の回復過程であるが、政府と業界は一丸となって、土壌改良に挑んだ。とくに灌漑設備の増強と化学肥料の投入が目玉だったのではないか。

 とくに、ニューディール計画は、巨大な水利系を構築することで、大平原の土壌流失を防ぐ手立てでもあった(歴史書はそのあたりを説明してくれてないような気がする)

それにオグララ帯水層の地下水利用が促進したと思う。

 なんにせよ、この時代の前後にアメリカでは巨大ダムや治水施設が多数誕生していることは、ほぼ確実だろう。巨大なフーバーダムなんかもそう当時の産物だろう。

 20世紀後半にはその効果は如実に現れた。食糧生産大国であり消費大国であるという夢のアメリカ型帝国と生活スタイルの出現である。

 このお話しは、しかし、21世紀に入って、暗転の兆しを見せている。化学肥料の投入での生産性向上は飽和している。それに加えて、中西部以西は毎年の干ばつだ。記録的干ばつというニュースが何回報じられたろうか?

 巨大ダムの効能は色あせ、貯水池は低水位を更新している。頼みの地下水源であるオグララ帯水層も年々減少してきて、あと数十年持つかどうかだ。

 1930年代に国家レベルで対策を講じたような、そんな有効な施策があるかどうか、自分にはわからない。今流行りの脱カーボン技術や自然エネルギーの利用などとは別次元の問題であるように思える。

 けれども、いずれにせよそうした施策は問題先送り型であることは確実であろう。

 食料自給率がめちゃ低い国の一市民としてはアメリカ穀倉地帯の甦りを切に望むものであろうが、歴史の観照者としては悲観的な見通しに陥るのは避けられない

 

【参考文献】

 

 


www.youtube.com

 

ja.wikipedia.org