サイエンスとサピエンス

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地球温暖化懐疑論と帰納法への懐疑、それにイディッシュ文学

 三題噺だと思って読み流ししてもらえれば幸いです。
岩波文庫の『世界イディッシュ短編選』は我ら日本人とかなり異質な文化、東欧ユダヤ文化の世界の見方を感じさせる内容豊かな文学の存在を告げてくれている。もって多とすべきだ。

 ショレム・アレイヘムの短編『つがい』が冒頭にある。これもスラブにおけるユダヤ教徒の教えみたいなものがその迫害の痛みとともに表現された珠玉の逸品だ。
 ネタバレになるが、ユダヤの過ぎ越しの祭を前にした二羽の雌雄の七面鳥のほの悲しい市民的な寓話とも私小説ともつかない不思議なお話だ。
 それが帰納主義の批判とつながる。
 気苦労の多い日々の合間に、楽観的な性格の雄の七面鳥は明日は良くなる、解放されると相方の雌の七面鳥に語りかけるのだが、いよいよそのイベント(過ぎ越しの祭)になると、二羽というか、ここは二人は、と言いたくなる、供儀の食材となる。
 これは、帰納法のパラドクスをアレゴリーにしたような内容だ。毎日、生きているから、明日もそれが継続するというのは確実ではない。現にバートランド・ラッセル七面鳥の例で同じことを指摘している。
 ラッセルの喩えは、こちらのサイトから孫引きさせていただくと

『ある七面鳥が毎日9時に餌を与えられていた。それは、あたたかな日にも寒い日にも雨の日にも晴れの日にも9時であることが観察された。そこでこの七面鳥はついにそれを一般化し、餌は9時になると出てくるという法則を確立した。そして、クリスマスの前日、9時が近くなった時、七面鳥は餌が出てくると思い喜んだが、餌を与えられることはなく、かわりに首を切られてしまった。』

 単純化すれば、観察された事実から普遍的な法則は導けない、みたいな教訓話になる。
 では、地球温暖化問題、そのうちの地球温暖化懐疑論に対してはどのような示唆を与えるのだろうか?
 自分の予想では、まったく関係ない、と思う。統計的観測事実として地球温暖化の傾向には、さしあたり疑いはないだろう。別に疑うなと言っているわけではない。でも2018年の北半球の寒冷化でもって、七面鳥の悲劇だというほどのことではない。
 哀れな七面鳥のように「1=生存」だったものが「0=死亡」にひっくり返るわけではない。一過性の寒冷化は全体傾向をひっくり返すものではない。
 これはデュエム-クワインのテーゼ、つまり、決定実験の不在に似ている。ある学説を全面的に折伏させる決定的な実験は存在しない。

 自分の感じでは、帰納法的方法論の論理的分析は、簡単には「地球温暖化」のような現実の問題には適用できない。
 そうはいっても、何も教訓無しかというとそうでもない、と思う。
 有限な観測事実に対する人間の「判断」は、せいぜいのところ「尤もらしい憶測」でしかない。観測事象の6σでの判断が強力であるなんて理論上のお話だ。
 ブラックスワンはいたるところを飛んでいる。しかもその制約は統計的有意性だけではない。
 地球という巨大なシステムにはカオス的な非線形性なども含まれている。「カオス」現象は気象学のあるモデルから発見された。
 なもので現在の傾向が今後何百年もそのまま続くというのも、憶測でしかない。
 我ら、人類全員が明日をも知れない七面鳥だというショレム・アレイヘムの寓意が残響する。


【参考文献】

 異質なスフラワディの精神に触れる。哀れな七面鳥のお話しは『つがい』という冒頭の短編であります。
別にラッセルの帰納法限界の説とは無関係な、ユダヤ民族特有の歴史的な教訓がこめらている。

世界イディッシュ短篇選 (岩波文庫)

世界イディッシュ短篇選 (岩波文庫)

  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: 文庫

 どこから読んでも面白可笑しい哲学史の代表作。
それにしてもラッセルの解説というのは一流だなあ。