サイエンスとサピエンス

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江戸時代の人口推移の東西比較

 板倉聖宣の『日本史再発見』(1993)を読んでいたら江戸時代の相馬藩の人口推移を推定していた。参考文献に速水融などの歴史人口学の資料が参照されていないところを見ると独自に集計された結果なのだろう。
 何にせよ江戸時代の人口推移が1720年台に転換点を迎え、相馬藩(福島県の東北部)は人口減と年貢の減少に悩まさるようになるという報告を科学史の専門家が出しているのだ。
 その転換期に将軍になったのが徳川吉宗だ。当時としては英邁な統治者だった。しかし、彼の手腕を持ってしても「人口減」を人口増に戻せなかったようだ。もちろん各藩でも同様な努力は傾注したのだが..
 その統治の結果をみてみよう。
 これを歴史人口学の成果で検証してみる。
 「江戸時代の日本の人口統計」という歴史人口学の成果がWIKIに集約されている。速水融の弟子である鬼頭宏の推計結果が地域別にあるので、それを利用してグラフにする。

 手始めに全国(蝦夷地から南九州まで)の江戸時代の人口推移をみる。上記のWIKIのデータを使わせてもらう。したがって、1600年(慶長五年)から1846年(弘化三年)までの不定期の人口統計(推計)を表示する。

 明らかに1720年から人口が減少している。それまでの急速な人口増の反作用であるかのように。3100万人から伸びが止まったのだ。

 何が起きているのだろうか?
 江戸四大飢饉の最初のものは寛永の大飢饉(1642-1643)であり、家光の時代にあった。これは人口増に大きな痕跡を残していないようだ(わずかに変曲しているが)。むしろ、享保の大飢饉(1731-1732)がダメージを与えているようだ。これは西日本を中心に大きな被害をもたらした。
 この飢饉で青木昆陽のサツマイモが有用であるとされ普及が始まったという。
そして、天明の大飢饉は長期間(1782-1788)の凶作を東日本全域にもたらした。上記のグラフにおける下降線が如実に物語っている。
そして、天保の大飢饉(1833-1839)も同様な影響を東北地方に残した。グラフの最後の凹みにその惨禍を見ることができる。
 つまりは、飢饉が最大要因なのだと考えてよいだろう。天明の大飢饉のように浅間山噴火が原因である場合もあろうが、過剰な新田開発や森林伐採などの人災的側面も見逃せない。

 西日本と東日本の人口推移を比較してみよう。
 上のWIKIの集計で西日本は畿内畿内周辺、北陸、山陽、山陰、北九州、四国、南九州とし、東日本は北海道 (蝦夷)、西奥羽 (出羽)、東奥羽 (陸奥)、北関東、南関東、東山、東海とした。

 青線が東日本で紫線が西日本である。江戸時代を通じて西日本の人口、国力が東日本を上回っていたことが判然とする。天明の大飢饉は東日本に大きなダメージを与えた。西日本の人口は停滞はするが減少してはいない。
 だが、天明の大飢饉は西日本にも爪痕を残している。総じて江戸後期まで東日本は停滞し続けているような塩梅である。
 明治維新の原動力、西国雄藩の台頭とは人口と経済力の東西格差の意味もあったのだ。

 この集計を通じて、自分としては北関東の悲惨な状況に瞑目せざるを得なかった。
北関東とは上州、下野、常陸である。歴史に名を残すような名君というのもこの地域にはいなかった(百姓にとっては徳川斉昭は名君ではないし、水戸光圀も同様であろう)
 人口はアレヨアレヨと言う間に減少し続けているのだ。どれだけ農政が失敗しているのだろう。
 関東以北は二宮尊徳翁の活躍を持ってしてもなお回復しえなかったのだ。
 江戸時代の安定性というのはこの程度のものだったのだが、それでもクローズドサイクルの鎖国下で独自の文明を維持していたのは認めない訳にはいかない。


【参考文献】

日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

歴史人口学の世界 (岩波現代文庫)

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  • 作者:速水 融
  • 発売日: 2012/10/17
  • メディア: 文庫

【追加】
 板倉聖宣の著書『日本史再発見』の前半部分は「車と乗り物の歴史」で、日本での乗り物が通史的にどう移り変わったをまとめている。実はこれも「歴史人口学」で同様な集計を行っていた。
 板倉聖宣によれば日本では「牛車→乗馬→駕籠→人力車→自動車」という不思議な変遷があったとする。乗馬から駕籠に主力が移ったのを「不思議」といっているのだ。西洋との対比では、あるいは通常の進歩の観念からすれば、家畜から人力に移ったのは「変な」のは確かだ。ここは「馬車」であるべきなのだ。
 江戸時代に起きたこの逆シフトを歴史人口学でも捉えていて、中部地方のデータで速水融はこう書く。

十七世紀には平均して人口二十人あたり一頭、それが十九世紀には人口百人あたり一頭になった。二十人あたり一頭というと、四世帯に一頭くらいである。百人あたり一頭なら、二十世帯に一頭になる。

 その結果、「勤勉革命」が起きたというふうように語るのだ。「駕籠」もその一つということになる。
歴史人口学の農耕馬での研究結果であるにせよ生産現場での人力シフトは運輸にも影響したのだろう。でも、なぜ人力シフトが起きたかについては、歴史人口学は語らない。ああ、あの危機警告の少女グレタさんの言う通りにしようとするなら、人力シフトが一番なのだろうか。