漢民族が主催した近世以降の王朝は北宋/南宋、明がある。中華民国は混乱のうちに短命に終わったので考察外とする。もちろん、近代で日本と交流をもった清の支配民族は満州民族であるので、重要ではあるが、考察の対象から外そう。
以下、中国史学の泰斗、宮崎市定の歴史書に基づいて、論を進める。
宋は五代後周の遺産を受けつぎ、趙匡胤(太祖)が開いた。弟の太宗がそのあとを継ぎ、真宗と仁宗でその勢力はピークに達したとされる。
後周の世宗の政治的遺産を受けて、太祖と太宗の二代で宋の基盤は出来上がった。
文官が武官をコントロールする官僚制もその一つだ。文官は大きな自由度があるが、武官は文官統制にある。同時に、当時として先進的な貨幣経済が急速に伸長し、大運河の開通などで経済発展が著しかった。
従って、官僚の汚職は引きも切らせずであり、遼や金などの北方遊牧民族に対して軍事的な勝利はめったにないというのが、その結果だと宮崎は総括している。
同時代で金銀以外の法定貨幣や紙の有価証券を流通させて成功していたのは、宋だけであるとする。十世紀末から十一世紀中ごろまでの興隆期となっており、それに対してヨーロッパは「暗黒時代」という俗称の低迷期にあった。
モンゴルの元の支配のあとに生まれたのが、明だ。漢民族国家である。
朱元璋が太祖だ(容貌の醜さは伝説的だったいうのが可笑しい)
明の初期政治では度重なる対立勢力の粛清が目立つと宮崎は指摘している。一家眷属を誅殺する、それも千人、万人単位で処刑することが頻発したのが、この政体の特徴だという。三代目の永楽帝は二代目の建文帝を追い落としての登場である。
自分が粛清対象となる前に先手を打ったやり手の皇族だったわけであります。彼の時代に明は最初のピークを迎えた。あの鄭和の大航海もこの三代目の時代の逸話である。北伐といって遊牧民族に積極攻勢をしたのは、この皇帝だった。そして、第六代の英宗(正統帝)の時代にピークを迎えたという。
それと明王朝時代ほど官僚が多く殺された時代はないと宮崎は主張している。天子の前には士大夫も庶民も平等だから、その贖いも等しくなった。つまり天子独裁制での民主化だというのが、この中国史の権威の解釈である。
それ以降、衰退の一途をたどり、再び遊牧民族である満州族に支配されるまで、その支配は弱弱しく続く。
宋も明も対外的に征服戦争を行う傾向は弱く、安南などに攻め入ったことは例外で、遊牧民族対策としての守りが中心の国家戦略だったと総括できるだろう。
以上の漢民族の支配の特徴をまとてみよう。
・文官統制で官僚主義
・天子や皇族の独裁(三代目でピークというのが多いようだ)
・軍事的膨張主義はない。あっても一時的。
・海外植民地の支配や対外貿易の熱意は一代限り 例:鄭和の一路一帯
・末期は農民の大反乱で衰弱し、他民族に(遊牧民族により)征服される
現代の中華人民共和国でも、伝統的な国家運営への回帰が目に見えないところで、常時作用していると解釈できる部分があろう。
明に似ているのは、一党独裁の名のもとに個人専横と個人崇拝に変質することがある。晩年の毛沢東のようにだ。 毛は有力なライバルは粛清した。文化大革命はその仕上げだった。党争と敗北者の抹殺はその後も政治的行事となっている。明と同様だ。
以前のBlogでものした『名将 彭徳懐の悲劇』なる事実が最たるものだ。
朝鮮戦争で人民解放軍は北朝鮮軍とともに韓国を破滅の淵まで追い詰めた(彭徳懐の活躍だ)。だが、その後の戦線の後退によって38度線で膠着と同時に朝鮮半島から軍を撤収した。ベトナムとの国境紛争もそうだった。深入りはしていない。ただ、チベット自治区については支配権を強引に確立したのは悪名高い。台湾は微妙な地理的位置にある。清は時間をかけて明の遺児を担いだ鄭成功の台湾を討伐した経緯がある。
それでも膨張主義は永続していないであろう。漢民族の実績をみればわかる。遊牧民族の北伐もベトナム侵攻もすべて短期間での戦闘と敗北&撤収に終わっているからだ。
これも偉大なる中華の伝統だ。古代の大帝国、随は大軍で出兵するも高句麗に敗れて、亡国しているくらいだ。外征での敗北遺伝子は健在なのではなかろうか。
【参考文献】
京都大学の厚みのある東洋史の伝統を継承した碩学の金字塔というべきかも。
このくらいかみ砕いてもらうと素人も史観を養える。