内藤湖南の『卑彌呼考』などでは、田道間守は難升米(ナシメ)に比定されることがある。タジマとナシメ の類似からだろう。
田道間守は、ヒナモリという魏志倭人伝の官職名を想いおこす。おそらく邪馬台国から任命された行政の副官なのだ。島守と書かれることもある。
田道間守は記紀によれば常世の国に派遣されたが、倭人伝のナシメだとすれば、中国の魏に派遣された使節団長とみなせるというのが、内藤説であります。
ところで、ヒナモリ=島守は外交の任務を兼ねていたと空想できるよう。なぜなら、島伝いに任命されているらしいから。
田道間守は新羅からの渡来人の孫であるという。つまり、半島の文化を知り、同時に半島とのコネクションもあったらしい。
太守は三国時代の官職名だが、記紀の筆記者は「もり」を充てている。「もり」の意味は古代語ではどんな意味があるだろう?
防人(さきもり)は万葉集にも登場する。折口信夫の『万葉集辞典』によれば、
ひなもり{夷守] 筑前の駅名。 というのがある。
ここでも離島の連絡役の行政官のようなものさしているようだ。
魏志倭人伝では、以下のように官職が国ごとに登場する。
対馬国には長官がいて卑狗(彦)と副官は卑奴母離(ヒナモリ)という。一支国(壱岐)にも卑狗(彦=ヒコ)と副官は卑奴母離(ヒナモリ)がいる
不弥国には長官は多模(タモ)、副官は卑奴母離(ヒナモリ)。投馬国では長官は弥弥(ミミ)、副官は弥弥那利(ミミナリ)という。
伊都国では長官を爾支(ニキ)、副官を檎跨(当て字;ゴコ)、奴国は長官を呪馬跨(当て字;ジマコ)、副官を卑奴母離とする。
邪馬台国自体の長官は伊支馬(イシマ)、副官は弥馬升(ミマショウ)、その次官を弥馬獲(ミマワク)、その次席を奴佳韃(ヌケタイ)としている。本国の大臣クラスの官名らしく響く。本国の官僚もしくは大臣級の行政官は、大和朝廷にでてくる官職とはまったく質が異なっている。比定するのが困難だ。
自分はここに古代豪族名の多くを充ててみたい。邪馬台国の運営体は豪族連合だったとして、読み直す。
伊支馬(イシマ)は出雲(イズモ)の臣の代表者だ。出雲族が全体を統括する族長だったわけだ。
弥馬升(ミマショウ)は崇神天皇(みまきのみこと)とする。卑弥呼の弟分として、この天皇の地位は次点だったとする。
弥馬獲(ミマワク)は三輪君(ミワノキミ)で大神神社の一族だ、奴佳韃(ヌケタイ)は額田部にかかわる一族だ。
そういう目で伊都国と奴国を考えるとこの二国は、自国独自の臣を残していたといえる。爾支(ニキ)、副官を檎跨(当て字;ゴコ)は伊都国の氏族の名前だろう。弓削氏の祖は爾伎都麻呂という。ニキ氏を内藤湖南は「イナキ」の訛りとしている。
奴国の呪馬跨(ジマコ)もそうだ。