バカをまともに検討するだけではなく、その意義をポイジティブに評価する。そんな考えには、どのようなものがあるだろう。
自分が最初に思い浮かべるのは、柳田国男の論考だ。民俗学が愚者をとりあげるってどういうことか?
笑い話やことわざ、ウソ、キッチョムや一休さん頓智ばなしのような民話などだ。
何を先祖たちは笑いの対象としていたかを問うのだ。民俗学は式亭三馬や十返舎一九のような滑稽本のようなものを扱わない。庶民のあいだに流布していて、日ごろの生活に埋もれていた「笑い」を拾い集める。
会話から拾い集める。「たはこと」をいえば「たわけ者」だと先祖は考えていた、と柳田翁は書く。
地名で「タクラダ」があると柳田翁は指摘する。秋田県の雄物川に「言語道断」と書いて「タクラダ」と読ませる。そんな場所さえある。
地方では「タクラ」は「愚か者」を指しているという。愛知県三河の山奥の花祭りで
囃子言葉「ターフレタフレ」もその派生だろうという。
笑いの対象は、「欲深物惜しみ」が第一、「知ったかぶりと早合点」が第二、「バカ婿、愚かな親子、愚か村」が第三だとまとめている。第二のは古典落語の世界。第一は民話の世界。第三は地域差別の世界なのだろう。
柳田翁の『たくらた考』は現代人も刺激する忘れ去られた言葉が出てくる。
「タクラ」は飲んだくれに残っている。与太郎は与太話でかろうじて会話に出るが、ヨタクラから生じた。関西ではゴンタクレ、伊豆半島ではノロタクといのはどうだろう。
タクラタは「オタクラ」ともいう。オタクの語源説に加えてもいいだろう。
バカについても柳田翁は「烏滸(オコ)」が語源という一説を立てている。『今昔物語』ではうつけ者を「オコの者」と呼んでる。大蔵の太夫清廉の猫嫌いが31話にある。関西の大地主であり富のちからで官位を得た、やり手の男だ。弱点は猫嫌いであって、大和守輔がそれを利用して、とっちめたという話だが、これを「烏滸のこと」いっている。こんな古い例をあげながら柳田翁が主張したことは、オコがバカに変じて、笑いが落ちぶれてきたことだ。劣ったもの力が足りないものをあざ笑う、そういう蔑みがバカに込められるようになる、それを笑いの零落と嘆くのだ。
ウソの効用を説く『ウソと子供』も近代人が「ウソ付きは泥棒の始まり」などとすべてのウソを悪と断じることによる弊害を嘆いている。昔の人はウソと偽りを区別して、ウソを楽しむ余裕があった、とでも言えようか。
うそつきに自慢言わせて遊ぶらん 野水
頭がおろそかだった昔の関東ではウソと偽りに区別がなく、偽りをウソというようになってしまったというのが、その説の流れだ。