子ども頃から東京近辺の人たちは関東大震災の記憶を刻みこんできた。そうこうしているうちに、1923年の発生以来、もうじき100年となる。
あんな被害、二度とゴメンだという気持ちは、みな同じだろう。予知、防災、減災と日本人は努力を積み重ねてきた。
予知という点では、20世紀末までは地震の周期的再来をもとにした議論が大きかった。69年周期説などが1990年あたりまでは定説みたいになっていた記憶がある。
しかし、それは昔ばなしだ。
昔ばなしといえば、東海沖地震の再来も昔ばなしになってしまった。あれほど力を入れていたからには、捨て去るには惜しいということにはならなかったわけだ。地震学者たちも大きな方向転換をしたのだ。
地震の周期性は地震予知論では棄却されたといっていい。つまりは、いつ再来するかは確率の問題となっているようだ。地域ごとでの「30年内に発生する確率80%」みたいな語り口が、現状の予知の方式になっている。
この「確率80%」というのが解釈が難しい。
さいころの1の目が出る確率という意味とは、あきらかに違う。30年後の世界は「1つ」しかない。6個の出方のうち1つが出現するさいころとは違う。頻度主義で語れない確率だ。
天気予報の確率と同じだろう、と普通は思う。
でも、地震と天気では観測できる情報が圧倒的に違う。前線が北にそれるか南にそれるか空間的誤差について信頼性を語っているのが天気予報の確率であるようだ。
地震は空間的誤差が可視化できていない。何についての誤差なのか、自分には理解できないし、語れない。断層で歪みがたまってそのエネルギーが解放されるという通例の解釈で、誤差ってなんなのだろうか?
つまるところ、予防としての減災と急速な復旧がたしかな方策であるというのが、自分の立ち位置である。大都市では震度7でも交通・情報・エネルギーインフラは耐性があるべきだろう。かなりハードルが高いのは事実だが、それが「安心」のもとになる。