サイエンスとサピエンス

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古代の伝統 テセウスの船とノイラートの船

しばしば、日本文化は縄文文化を受け継いでいるとか、弥生文化の伝統が生きているという主張をみかける。

 言語的な観点でいえば、両文化ともその時代の言語が現代日本語のどこに相当するかを識別することが難しいので、文化的伝統がどうなっているかを語るのは難しいだろう。とくに、縄文人の言語はかいもく分からない。

 ち=血、め=目、て=手、いき=息、あし、=足、みず=水、ひ=火、もり=森、やま=山、うみ=海、つき=月、...といった卑近な二文字未満のことばのどれかには残っているかもしれない。

 

 このような広大で空想めいたことを語るときテセウスの船というパラドックスを思慮するのは必要だろう。ひところのTVのミステリードラマのタイトルにもなっていた。

ここでは、部分を入れ替えているうちに最初の構成物がなくなってしまっていた。その時、最初に命名されたものはそのままなのか、そうではないのか?

 ウィーンの有名オーケストラの団員は創設時とは全員入れ替わっているだろう。それでも創設時と同じといえるのか。同一なものは名前だけではないか?

 言語の時代変遷と同一性に関しては、言語変化は当然であるとされているため、テセウスの船は問題になることすらない。

縄文言語や縄文文化は発展的解消されたのだという言い方もある。しかし、ノイラートの船の考え方を持ち込むと少々、観点がかわってくる。

 知識や学問の総体というのは洋上の船のようなものだとノイラートは主張した。航海し続けるために船体を補修したり増強したり、交換しながら維持していくほかはない。

 共同体や社会を維持していくために知識を完全に解体してしまうことはできない。洋上で船体を壊してしまうことはできない。

 文化も似たようなところがある。それを継はぎしながら維持しているとテセウスの船のようにいつ間にやら異なる文化に変容しているのだろうか?

 

 クワインホーリズムの主張でノイラートの船の比喩が用いられた。

 

 縄文語の識別可能性を論じる人もいる。

 

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 ノイラートの船を哲学的に扱った倭人の専門書