サイエンスとサピエンス

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環境問題の対策の有効性の検証はあるのかしらん

  今から70年前というと20世紀の真ん中あたりだが、そのころ日本でも公害とか大気汚染などがマスメディアを賑わすようになっていた。四日市ぜんそくとか、水俣病とかのホットだった年代だ。

 実は原因すら工場の排気ガスや廃水にあるとは確定されていなかった。そうなのだ。

 そうした地域性のある環境問題は次第に原因が特定され、規制が施行されてゆき、被害者補償も始まり、重大さは稀薄化していったようだ。例えば、クルマの排ガス規制なども強化されていった。

 日本という地域の局所性がなくなった。

 中国や韓国など他の工業国が肩代わりしたわけだろう。酸性雨オゾン層破壊もしばらく大きな問題であった。
 大気汚染にPM2.5を追加したのは最近だろう。
 ここ10年は地球温暖化がホットな話題といってはなんだが、ほぼ先進国共通の定着したテーマである。
 21世紀も20年が経過した。この時点での感想は、20世紀後半から、環境問題は地球上に拡散して巨大化した感がある
 つまり、環境問題への対策は実効性が少なく、後退と敗北の繰り返しであったように思える。根本的な解決や低減は進んでいないのだ。先進国の財政問題と同じで先送りだ。

 70年以上も経ちながら、こうした有り様である。なるほど、各国ではそれなりに環境対策は実施されてきてはいる。だが、切り札ではなかった。

 要するに、発生原因を地表にあまねく分散させることで人びとから問題を見えなくさせてきたようだ。

 レイチェル・カースンに代表される意識高い系の預言者たちは警告をだしてきてはいた。その社会的な応答はそれなりあったし、効果もあったのだろう。でも、この有り様である。どうして大気汚染やPM2.5や温暖化を逆転できないのか、その検証も必要なのであろう。
 70年をふり返って、その反省を踏まえて今後どうなるかといえば、「ダラダラ続くぬかるみ」が深まってゆく、そう指摘されても反論できない。

 今後、再び環境変動の地域性と激化が強まり、切迫感を持つようになる。

 例えば、現在進行中のカリフォルニアの長期干ばつのように、住民にも農作物にも打撃を与える。アメリカ人の娯楽ともいえる庭の芝。西海岸では芝にスプリンクラーで湯水のように散水する行為は消え去る運命だ。

 行く手に待ち構えることは間違いのないと残念ながらより厳しい自然環境からの反撃となろう。それは多くの人たちの実感ではないかなあ。
 自分も含めほぼすべての人類が目先の利益の追求に余念がなかっただからであろう。
グレタ嬢は例外かもしれないが、本当の唱道者、リーダーは不在だったということになろうか。

 

 

 

 マクニールの貴重なる研究。特定の先進国は環境劣化を抑え込むのに成功した、かのようにみえる。実現に成功した理由は、新興国に廃棄物や工場を転化するという手段だったようだ。