木村資生から始めよう。彼の分子進化の中立説はノーベル賞級の発想と発見であった。その業績の先進性は高く評価されるべきだろう。
もう一人、分子生物学の渡辺格である。ウイルスの遺伝特性を解明したその業績も先進的だった。
両者とも後期には人類の将来に思いをめぐらした。
マラーの生殖質選抜の方法は、人類の積極的優生の手段として、一般的知能とか健康、社会的協調性といった形質の遺伝的改善を行なう上で、科学的にはおそらくもっとも安全・確実で、長期的にも有効な方法といえるかもしれない。
「マラーの生殖質選抜」とは、優秀な資質の人びとを選別して、その子孫の増加を人為的に補強するといことだ。
もちろん、その危険性は著者も承知しているので、こう付け加えている。
マラーの方法が社会的に是認された場合の話であることをつけ加えておきたい。
でも、この方法は科学の客観性を侵害しているのに、気が付いていないようだ。
なにが優秀でなにが劣悪であるか、それは文化的なバイアスでしかない。さらにいえばDNAが生物の特徴を決定するすべてではないことがエピジェネテックスその他から明らかになっている。
文化的バイアスの例はナチの優等人種としてのアーリア人であろう。
木村資生は旧世代型の科学の無制限な発展を信じた頃の人であったことは、「人類の宇宙的発展と進化」でスペースコロニやオニールを論じていることでも知れる。
残念なことに科学技術は生物学においてすらも停滞の兆候を示している。たとえば、ガンの制圧は100年以上の集中的な研究によっても成就できていないし、見込もなさそうだ。
さて、渡辺格は「人間の終焉」を説いた。1970年代だ。こちらの方は同じ人類の将来を論じているが、結論は提示していない。
彼も人類の遺伝子プールの劣化を考えた。弱者を抱擁する社会では欠陥遺伝子が増える。遺伝的弱者も子孫を残せるからだ。人類はそこで決断を迫られる。弱者を抱えていく選択か、そうでない選択か?
前者を高貴な選択と呼んだ渡辺格は自分の選択は示さなかったようだ。
それから50年。
日本は遺伝的弱者を抱えた社会になりつつあるようだ。しかしながら、何をもってして遺伝的弱者と判断するかは全然あきらかではない。
第一、身障者はそうだといえる根拠は何もない。
さらに様々な疾患が増えすぎた。
たとえば、自閉スペクトラムやらなにやらDSM-5(精神障害の診断・統計マニュアル)には数知れない精神障害があふれている。
どれが遺伝的欠陥なのか?
つまり、木村も渡辺も生物の本質を遺伝子に重みを寄せ過ぎて見通しを誤ったというのが、21世紀初頭での評価になるだろう。
優生学をDNA優位主義の「分子生物学」でラッピングして科学的装いを凝らしただけなのだ。その「分子生物学」も遺伝子決定論からはみ出したし、人類の社会に起きている現象も単純ではなかったということだ。
日本社会は今のところ、渡辺格のいうところの「高貴な選択」の方に向かってはいる。福祉施設はいたるところにあり、バリアフリーは遅ればせながら進んではいる。視覚障碍者が公共交通機関を利用しやすい国ではナンバーワンなのではないだろうか?
それも長期的に制度疲労を起こす可能性はあるものの、にしても、いろいろな弱者とともに生きる社会の実践は高貴な選択ではあろう。