先日、ケネディ&チャーチルの『ヴォイニッチ写本の謎』を読み直した。
著者たちは普通の作家たち(それにしても凄い組み合せの名前)だ。BBCの特別番組の書籍化したものなので特別な偏向はない。つまり、この謎の手稿に対して、古代の叡智だの、秘密結社の秘本だの、賢者の暗号本だのという思い込みがない。それだけ客観性をもって、古今東西でも最も写本の謎を追い求めている。
ロジャー・ベーコンが著者だというのが、発見者のヴォイニッチの説だった。たしかにあのフランシスコ会の天才的な修道士なら、この隠秘的なノートを残す可能性があっただろう。
そして、この手稿は修道士の独自な暗号で書かれているというわけだ。
雰囲気が味わえるようネットで公開されている手稿の数ページを転載しておこう。
イェール大学の蔵書印がある。
このように植物誌のようなページが半分くらい続く。しかし、後半あたりから図誌の絵柄は変調する。妖精めいた人物像が植物に出てきて、さらには天界のような同心円やら星雲めいた渦が含まれていたりする。
目を惹く図としては銀河系のような渦が描かれているページがある。中世の暗黒時代に渦銀河?これは失われた古代文明の遺産ではないの? となるわけであります。
このように、記された内容が尋常ならざるものだろうと想像するのは容易だろう。でも、この稚拙な図像に秩序があるのだろうか? アルファベットならざる文字の羅列に常人が読みとるための規則があるのだろうか?
そう、「古代の叡智だの、秘密結社の秘本だの、賢者の暗号本」ではないのだと自分も思う。
自分の説は中世のアール・ブリュットだというものだ。
この『ヴォイニッチ写本の謎』にアウトサイダー・アートの可能性が触れられていないわけではない。2頁にわたってヘンリー・ダーガーが挙げられている。しかし、著者らは可能性を指摘するだけで、すぐさま、ビンゲンのヒルデガルドの話題に移っている。つとに種村季弘が紹介したビンゲンのヒルデガルドの書物はマルチタレントだった修道女の聖なるイメージとメッセージにあふれている。同じような秘密の書なら、ヴォイニッチ写本は宗教書であるとしたいのはわかる。そっちの仮説の方が大衆受けるすからだろう。
今日では、アール・ブリュットが様々なタイプの秘密に満ちた、しかし、作者にしか意味がないような創作物を残している。彼らは閉された世界観をもっているのだ。
NHK制作の『‘No art, no life』シリーズの取材したアール・ブリュットのタイプだけでもヴォイニッチ写本のパターンはカバーできている。
身近な植物を何十年と描く老人、電車や建物をすき間なく平面に埋め尽くす少年、原色に満ちた有機物が織りなす造形を倦むことなく産出する女性..。その多くは自分の内面の豊穣なイメージを絵具に託している。
もちろん自然誌的な造形をするアール・ブリュットもいる。
下のようなルボシュ・プルニーの図誌はいかがか?
日経サイエンスの『ヴォイニッチ手稿の謎』(2004年10月号)の記事では、カルダーノのグリルという一種の暗号生成器で作成されたものに似た規則性があるという。しかし、それさえもASD(自閉スペクトラム症候群)的なヒトの脳のなかでの記号処理に規則性があると読めるだけだ。
あの長い西洋中世期の修道僧が自閉スペクトラム症候群になって、自然界を自己流に観取して、細やかな世界記述をしていてもいいではないか。
中世のアール・ブリュット、それがヴォイニッチ手稿なのだと思うのだ。
【参考文献】