愚問かもしれませんね。時間もエネルギーも二つの異なる方向に割けないだろと指摘されたら、ぐうの音もでないかもしれないから。
言わんとすることは、数学や論理で使うのは抽象化の把握力であること。詩とか小説は具象化の把握力という点になるかな。
数を考えよう。三本の矢と三位一体の3をおなじように観れるのが数の理解であろう。カップとドーナツの見分けがつかないなどとも揶揄されるのが位相数学者だ。
文学者は三本の矢から紋章や逸話を思うかもしれない。まず間違いなく三位一体とつなげたりしない。言葉の綾にもならない。
人の心理やふるまい、形姿や色彩やシンボルを連想することから文学の仕事は始まるのだ。3から奇数性や素数であることなどに思いをはせない。文学者は感覚と情念の探求に赴くといっていいだろう。それに引き換え数理系は操作や他の数や図形を探しにいくだろう。
具象化とはより身体的であり、他者との心理的な共感を重視する傾向にあるようだ。
数理系学者は数える、形に置き換える。回転させたり、演算を考える。
つまりは、能力を使う方向がまったく異なる、と言いたいだけなのだ。
かつてC.P.スノーが二つの文化ということを指摘した。20世紀になって理系的な文化が急速に発展し拡大した社会事象を突いている。数理系はきわめて局在的で一般教養において、わずかな配分しかなかった。幾何学と四則演算というようなものは文化というもの視野の外であった。しかれども、現代文明においてビットとかエントロピーを知らずしては片手落ちと見なされるようになっている。むしろ、シェイクスピアや夏目漱石は忘却の淵に立たされつつある。
こういう文化的な景観がどういう社会事象や歴史の波動になってゆくかを誰も語れないのもかなり大きな困りものだろう。
