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田中正造と幸徳秋水:百年の名文

 明治の義人、田中正造は北関東の地では、いまでも神と祀られている。
雲龍寺救現堂がそれである。農民のために一身を挺したその生涯は親子代々、この地で語り継がれるだろう。

 彼の名が天下にとどろたのは明治天皇への直訴事件である。昔ながらの作法で直訴状を天皇に届けようとした行為は、時代錯誤ながら、人びとからは同情を集めたようだ。

 直訴状の文面は、当時の名文家幸徳秋水に頼んだ。その内容は中公版『日本の歴史 22巻』の「産業革命」の章にほぼ全文引用されている。よほど感銘を受けたのであろう。学生のわたしの記憶にも刻み込まれた。

 草莽ノ微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首、謹テ奏ス。
伏テ惟ルニ、臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ 鳳駕ニ近前スル、其罪実ニ万死ニ当レリ。
 而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民の為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ、陛下深仁深慈、臣ガ至愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。

 に始まり、最後には正造の悲痛の必死の訴えで結ぶ。

 臣、年六十一、而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命 幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ、敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス、情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ、聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。
 臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。


 これだけの文辞を問答なしに秋水が書き下し、修正なしに正造が受け入れて、日比谷に直行する正造を見送るシーンは、一幅の絵だ。やがて正造は野に降り農民のなかに生き、秋水は大逆事件で冤罪に沈む。

 こんな男どもの時代であったのだ、明治時代は。


【参考】直訴状全文と読みはこちらを御覧ください
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo40_38_02.html

 渡瀬遊水池田中正造と谷中村を偲ぶには、この地がよいだろう。
 明治政府の隠蔽工作の遺産である。


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