サイエンスとサピエンス

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スモール・イズ・ビューティフルの功罪

 今は顧みられることがあまり無い、シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』(人間回復の経済学)は、1980年ごろ、第一次石油ショックを背景として、世の中の共感を呼んだものじゃ。
 「小さいことはいいことだ」「人間的なものはみな小さくあるべきだ」という主張は、ドデカいアメリカ車とコンパクトな日本車の勝者と敗者の判決文ように受け取られたものだ。
 当時の日本の製造業の「成長戦略」に即していたわけである。その後、「小さいことはいいことだ」は世界を席巻した。
 製品はどんどん小型化していった。自動車に限らず、家電や音響機器、カメラ、通信機器、情報機器は、コンパクト化を一途に歩んでいった。
 それは「功」と宣すべきなのであろう。じゃが、「罪」が付随するのに、我らは気がつかんじゃった。
 すべての商品はパーソナルなものという「常識」が、頭に染みついてたのだ。
一人一台が、そうまで行かずとも少人数で、商品を専有することこそ「人間的な生活だ」が、「スモールイズ・ビューティフル」の別の意味になってしもうたのじゃ!

 これがどうして「罪」だというのか? 
みなはそう言うじゃろう。平たく言えば、これが、消費爆発を生み出し、浪費につながるのは自明じゃないだろうか。 もともと、シューマッハはそうした意図を込めていたとは思えない。しかし、現実はそうじゃ。
 製品を小さくするためにモデルチェンジが頻繁になる。製品は生半可で安価に売りだされる。
 するとみんなが、より便利だと思い込み、また、自分だけの為に買い付ける。まだ、古い製品が使えるのにだ。つまりは、個々の人が資源とエネルギーをコマ目に使い続ける仕組みが生み出されてしもうたのジャ!
 拡大再生産だ。


 塵も積もれば山となる。


 資源とエネルギーは、誰もが24時間あらゆる場所で消費されるようになった。
それも、小型軽量で、誰にも気兼ねしないでいい、便利さの故に、だ。
 これが「スモール・イズ・ビューティフル」の予期せぬ帰結じゃわ。そして、レアアースの不足、石油高騰とフクシマ原発事故が到来したわけじゃ。

 商品の小型化サイクルが景気を刺激して、「経済繁栄」を生み出したのは否定はせん。それで日本は経済大国とかゆうて、ドヤ顔してた時期もあったんじゃしな。

 しかし、地球上のあらゆる人びとが、自分のクルマ、自分の電話、自分のテレビ、自分の電動歯ブラシ、自分のエアコン、自分のゲーム機なぞなぞを持つのが、正しい行き方=権利だと思いだしているのが、現実ではないか。
 現に、新興国の人たちはそれを当然と思って、疑いもしないでおる。
 ヤレヤレじゃわ。
 先進国の過ちをそのまま踏襲するだけではないか。過ちからは学んでもらわにゃならんのになあ。
 ほんに、どうしたら良いものやら。

スモール イズ ビューティフル (講談社学術文庫)

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スモール イズ ビューティフル再論 (講談社学術文庫)

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