サイエンスとサピエンス

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佐賀藩の蒸気機関と日本最初の要塞

 黒船のペルリが幕末の夢を破って開国を迫った。その時の「文明」のシンボルとして江戸幕府蒸気機関車のモデルを提供したのは、よく知られている。
 ところが数年を得ずして九州の一藩が同じ物を見よう見まねで作り上げたことまでは、ペルリ提督も知らなんだろう。日本人の模倣の能力はそこまで進んでいるのだ。

 これがその写真である。田中久重ことからくり儀右衛門が試作に関与している。

蒸気船も模型の写真も残る。

 スポンサーは佐賀の鍋島家である。
 肥前の怪物、鍋島直正井伊直弼の盟友であり、倒幕には最後まで乗り気ではなかったというが、英明な藩主であったのは確かであろう。
 日本最初にして明治以前の最大の要塞を築造している。「四郎ヶ島砲台」である。鍋島直正は自費(佐賀藩の費用)で長崎防御の陣地を作り上げた。
 その史的背景を解説しておく。
 フェートン号事件という国辱的事件が長崎で起きたのは1808年。長崎奉行は引責切腹している。その当事者として佐賀の鍋島家があった。出島周辺の防衛を佐賀藩は命じられていたのだ。当主であった鍋島斉直は幕府から閉門100日を課せされた。
 その子である鍋島直正(閑叟)は大名として始めてオランダ船に乗船したとされる。そこで洋式の小銃や大砲を見た。種子島銃では負けると理解した。
 長崎の要塞を鍋島藩が幕府の肩代わりで築造したのである。竣工は1852年。黒船来航の一年前であった。
 この要塞は司馬遼太郎によればかなりの規模であった。

 港内神ノ島に二十八門、伊王島に二十六門の大小砲をそなえてほとんど全島はりねずみのように武装せしめたもので、このほか弾薬庫、機械庫、陣屋、火薬製造所などを造営し、貯蔵弾薬は、百五十ポンド砲弾二百発、八十ポンドから二十四ポンド砲弾まで賂畑百発、十二ポンド砲弾三百発、そのほか、銃弾三十万個、火薬十三万四百斤という厖大な数量にのぼった。

 江川太郎左衛門佐久間象山らの当時の洋学系知識人のもつ知識と情報を佐賀藩は集約活用して当時としては先進的な鋼鉄製製品を生み出すことができたのだ。

 詳しくは「鍋島直正公傳」第四冊あるいは司馬遼太郎の本の短編「肥前の怪物」も参考となろう。

 DLmarketの「鍋島直正公傳」
久米邦武編 『鍋島直正公傳 第四編』pdf

新装版 酔って候 (文春文庫)

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鍋島閑叟―蘭癖・佐賀藩主の幕末 (中公新書)

鍋島閑叟―蘭癖・佐賀藩主の幕末 (中公新書)

 長崎港の「四郎ヶ島」に東洋史上最初の自国民による半近代的な要塞がある。江川太郎左衛門反射炉世界遺産になったのだから、この跡地くらいは戦争遺跡として重要文化財にすべきだと思うのだ。


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