サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

認知症に関する進化仮説と福祉政策

 生殖年齢をとうに過ぎた高齢者が人類社会ではどうしてそれなりに大事にされてきたか。とくに伝統社会では「長老」として政治や司法の相談役などを割当られてられるばかりでなく、医療や教育にもあずかっていたはずだ。
 人類社会の存続に必要であったからだ。しかるに現代文明、とくに先進国ではどうやらその存在価値を減耗している。と、そう思われている。
 過去の知識や経験はそれほど役に立つというわけにいかなくなってきたという、その点にも注意が向けられている。

 それは一面の真実であろう。しかし、どうやら核家族化もおおきな高齢者の社会的役割の減衰の要因であるようだ。
 認知症が脚光を浴びて久しいが、核家族化が高齢者の社会的な能力の低下を招いていると自分は想定している。
 氏族の紐帯維持や緩衝役という役割が先進国社会ではドンドンなくなりつつある。ことに日本では著しい。孫を育てる「おばあちゃん細胞」(昔は別の意味であったけど)が使用機会がないままに、死滅しているのだ。

 最近(2016年7月)、厚生省が子育ての保育所や高齢者の老人向けホームなどを一体化しようという政策方針を固めたとのニュースがあった。もちろん、面倒をみる福祉側の人員確保など経済的な要請からの方針であろう。

【参照】「高齢者・子ども・障害者サービスを一体化へ 厚労省検討
 だが、これを機に高齢者の子育て活用も考えてみたらどうだろうか?

かつての族長的/伝統的な社会では自分の孫子でなくても老人たちは面倒をよう見ていた、であるならば進化論的な要件からも、社会的責務の自覚からも認知症のような神経系の衰弱を回避できよう。忙しい保育士と異なる育て方を受ける子どもも味わい深い体験ができよう。
手名椎足名椎の神話的な回帰も期待できよう(ここの節は意味不明かな?この神話はヤマタノオロチに関わるものだが夫婦の末子がクシナダヒメだ)

 とにもかくにも、今回の厚生省の政策が一石二鳥となることを望みたい。