サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

先人の知恵と原子力教団

 田中丘隅というと江戸時代の人で、多摩川周辺の地域の偉人ということになろうか。
 川崎市にとっては地域史の定番となる人である。もとは八王子の絹商人の末っ子で、行商人だった。それが川崎の地元の名家田中家を嗣ぐことになり、大名行列の宿場町で助郷などに狩出される疲弊した住民を代官と共同で救い、晩年には相模の治水で業績を後世に残した。

 酒匂川の治水で540間の堤を築くのであるが、その仕上げが巧妙である。
森銑三の評伝によれば、こうだ。

 堤がすっかり出来上がりますと、禹王の祠を堤の上に建てました。禹は、大昔支那で水を治めて人民の苦しみを除いたえらい王様です。そして毎年4月朔日をお祭りのの日と定めて、その日には老若男女の人々が、手に手に小石を籠に入れて持ってきては堤の上に撒き散らして、その上で踊りを踊って遊ぶことに極めました

 治水の技術的成果を信仰の儀式によりて補強するということだ。
これは、記号論学者シービオク教授がアメリカ政府の諮問を受けて報告したテクニカル・レポート『1万年の架け橋となるコミュニケーション手段(Communication Measures to Bridge Ten Millennia)』と通じるものがある。

 原子力発電の副産物である放射性廃棄物は今後数万年間にわたり、人の手の届かない場所に保管せねばならない。そのためには人々に「開けてはならない」というメッセージを的確に伝えなくてはならない。
 しかしながら、ツタンカーメンの秘宝のような「財宝」ではないと異なる文化・民族・言語、そして文明の人々にその意図を正確に伝えることは困難であるとシービオク委員会は考え、そして編み出した方法が「原子力教団」だ。
 つまりは、「信仰」の形態でメッセージを子々孫々伝えてゆく方式だけが、数万年の永続性が保たれる可能性が高いのだ。

 ある意味、皮肉な結論ではないだろうか? 文明間の情報伝達に科学技術は頼りになるものではないのだ。

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 ここで上述のシービオク報告書は無料で入手できる。
【『communication measures to bridge ten millennia』(E)pdf】
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 森銑三の評伝集の名作『おらんだ正月』は蘭学者だけでなく、田中丘隅のような地味だが智慧に満ちた恩人をも採り上げている。こうした人達が明治以降の日本の発展の基になったのだろうなあ。

新編・おらんだ正月 (岩波文庫)

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