サイエンスとサピエンス

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中谷宇吉郎の東洋思想への傾斜

 分子分光学を日本で発展させた藤岡由夫(1903-1976)に『妖気』(1939)なる「科学随筆」の一篇がある。

その前半は藤岡の母親への中谷宇吉郎の見舞いの逸話から始まる。

母の病室を見舞って出て来た中谷君は「君のお母さんのこんどの病気はどうも心配だから、一つ慶応大学の武見さんに診てもらってはどうだ。僕が行って来診を頼んであげるから」と言われた。

 診療を受けて病気が回復してから後、中谷宇吉郎と藤岡由夫は再会した。その折に交わした会話が如何にもな感じなのだ。

「実はこの前に君のお母さんの病気を見舞った時に何となく病床に妖気が漂うのを感じ、これは容易ならぬ病気だと直覚したので武見さんを頼むことをすすめた。今はその妖気が全で「なくなって安心である。この妖気は、かつて寺田先生のお亡くなりになる前に病床を御見舞した一時にも感じたことがあり、しかも自分ばかりでなく仙台の小宮博士も同じことを感ぜられた。しかし病人を始終見ている家人には、この妖気は感ぜられぬものらしい。」中谷君の話はきわめてまじめなものであり、私もそれ以上説明を求めずに別れた。

 かくて「随筆」はこう結ばれる。

 作用量子の存在は、事実として受け取られるべきものであって、それを考えに入れた理論体系が量子力学である。同じように生命の要素の存在もまた事実として受け取られるべきであろう。そして物理学における量子力学が発達したように、生命の要素をとり入れた広い科学が発展するかもしれないと思うのは、単なる空想であろうか。

 実はこの前年、中谷宇吉郎も大病をして、武見太郎の治療を受けていた。
中谷宇吉郎というと寺田寅彦門下で一流の雪氷物理学者であり、質の高い科学随筆も大量に残している才人である。
 その随筆のあるものに露伴先生と神仙道』なる比較的長編なる作品がある。この作品は1951年から1953年の宇吉郎の晩年の作である。

上述の小宮博士(小宮豊隆)が出て来るのが、そのその出だしだ。つまり、小宮とは死の予兆については屡々会話しており、「妖気」の伏線があったわけだ。

 何かの拍子に露伴先生の話が出た。そして文さんの『父』のことなどを話しているうちに、小宮さんが、「そういえば、幸田さんは死ぬ前に「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」といったそうだが、あれは君、大変なことだよ。幸田さんという人は、よほど傑かったんだね」としみじみいわれた。私も実は『父』を読んだ時に、あの言葉に出遭って、思わずどきっとしたのである。それで、「あれには本当に驚きました。辞世の歌などにはそう感心したこともありませんが、あれにはびっくりしました。今までああいうことをいった人はなかったんじゃないでしょうか」と、心から同感した。

 もっとも、露伴翁がなくなったのは終戦後間もなくであるから、藤岡の母親の逸話とは少々の時間のずれがある。
だが、中谷宇吉郎露伴道教研究にシンパシーを感じていたのは確かだ。というのは同編にこうあるからだ。「僊道」とは遷化の法という道家の秘法のことだ。

私は露伴全集をまだ全部読んでいない。小説と歴史物の一部、それに僊道関係のものを少し読んだだけである。しかしこの最後の僊道関係のものを読んだことを、予期しなかった幸運と思っている。というのは、露伴の死は、この僊道と非常に縁の近いもののように思われるからである。

 とくに「妖気」との関係では、この一文が示唆的である。『周易参同契』の露伴翁の紹介した一文であるが、自分の「妖気」体験と引き合わせているらしく思える。

周易参同契』の中に、「太陽流珠、常に人を去らんと欲す」という文字がある。露伴先生の解によれば、琉珠というのはこの場合は脳を指している。「人の霊作用が、常に外界内界に応酬して、その円妙精美のものを発揮し去り流動し去り消耗し去らずには居らぬところを、流珠常に人を去らんと欲すと云つたのである」

しかし科学を認めることが、全心霊現象を否定することにはならない。生命現象や自己観念の問題のすべてを、進化論や生物化学の進歩だけで解決することが出来なくても、ちっともかまわない。科学の方法は、結局は分析にある。分析によって本態を喪失する現象があっても、少しも不思議ではない。それらは科学と矛盾するものではなく、科学と縁のないものなのである。

 この文章の語りは、晩年期の中谷宇吉郎の心持ちをシメている。
 幾人かの死を経験し、露伴翁などの示した東洋的思惟に親しんだ末に中谷宇吉郎が達した境地なのであろう。それは自然科学と両立するものであった点が最後の寺田一門の流儀であったといえる。