サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

やはり気に入らないデジタル化コネクテッド社会への急速遷移

 世の中、ChatGPTのようなAIのブレークスルーやDX、量子コンピュータだの自動運転だのとデジタル化や高速通信などITの話題で引きも切らせない。

 インテル創始者ゴードン・ムーアが亡くなってもムーアの法則は永遠です、みたいな雰囲気だ。

 ここ50年ほどは、パーソナルコンピュータが誕生し、Windowsが生まれ、高速通信網が整備されて、4Gが5Gになり、iPhone&iPadに代表されるスマートフォンタブレット端末が爆発的に浸透する世界的な潮流であったし、あり続けるのだろう。デジタル化の進行は現代文明の宿命なのだろう。

 だが、その50年は少なくとも先進国の一般市民にとっては、生活の質や将来の展望が、ひたすら低下していく時代であったことを指摘しておきたい。

その傾向は21世紀になってから、とどめようがなくなった。アメリカがそのいい例だ。

 21世紀に入ってから、中間層がすり減り、経済格差が拡大したことは誰もが知っている。平均寿命がコロナ以前から減少しはじめており、とりわけ若年層が精神的に追い込まれている。

 リーマンショック後にそれが顕著になっていることが示唆することは、巨大企業が政財界を牛耳るパワーを拡大したことだろうと識者はいう。

 アメリカ的フロンティア精神の挽歌をここで繰り返すつもりはない。自分が最近になって確信が強くなっている仮説を開陳する前置きにしただけだ。

 

 いびつなデジタル化優先社会(アメリカモデル)は以下をもたらした。

1)社会の変化を加速した。進化と劣化の両面があるが、先進国においては経済格差の拡大や政治的な分断の進行を速めた。

2)人間の能力を減退させた。記憶力、会話能力、自己表現能力などである。それは、F2Fでのコミュニティ形成能力の減退を招いた。言い換えると社会の各層で公共性の基盤を毀損した。

3)CPUとメモリと高速通信は広く普くCO2と熱を放出し、Global Warmimingに一役買っている。やがて主役になるであろう。高速通信、データセンター、暗号資産や高機能AIはますます電力消耗が激しい方向に進化するのであろう。

 

 1)の例が街角の本屋の消失だろう。便利さと安さを消費者は選んだことで本屋の消滅は加速した。便利さと安さはITがもたらしたのは言うまでもない。アメリカではトイザらスが破産して、ショッピングモールの一角にあったおもちゃ屋がなくなった。その巨大ショッピングモールも数が少なくなってきている。ピーク時にできたモールの半数以上が廃墟となっているそうだ。こうした傾向そのものはデジタル化とは別に存在したのだろうが、わずか10年程度で生活が様変わりするのはラディカルすぎるのではないか?

 従来の業種のあるものが急速に廃れた代わりにIT業界が急成長した。職場の人びとの頭数が減り、IT関係企業の役員報酬が跳ね上がったというのがアメリカだ。

 

 これらがアメリカが先導し、EUや日本もそのお先棒をかつぎ、中国は本腰を入れた技術社会変革の闇だと思えてならない。アメリカの闇と中国の闇はそれぞれにブラックさが異なる。もちろん、日本の闇もそれなりにブラックである。

 便利さと安さと速さの代償を一般市民は払いつつあるのだと思えてくる。そして、誰もそれを止めろと言わないし、止めるすべもないのだ。

 でも、せめて変革と進化の速さは減速してほしいのだが、どうであろうか。

 

 

  負の参考文献として、ダボス会議のレポートをあげよう。すごく省略していうとこれまでのイノベーションを継続して効率的に運用しようと言っているようなのだ。

 グローバルで認められる賢人たちの賢明な提案というのいうのは、そういうものなのだろう。

 

 GDPは経済学者の最大の発明なのだそうだ。GDPを上げることが当たり前の世界にいつのまにやらなっている。GDPに貢献する一つの典型例がこうだ。

 高級な自動車を買い、保険に入って、交通事故で大破させる。以下、これを繰り返す。交通事故統計を見る限りでは、アメリカ人たちはこれを実践しているようだ。

 

不可能性の四品種と無の5種

 子ども時代に感銘を受けたSF『不可能性の四品種』というノーマン・ケーガンの作品がある。尖がった数学科の秀才、つまり「アンファン・テリブル」が技術的な不可能、科学的な不可能、論理的な不可能を超えた第四の不可能を突き止める、みたいな壮大な空論だった。

 古代インドでも因明による壮麗無比な空論が発達した。そのうち、大きな共鳴を持ったロジックが「無の分類」であります。

ヴァイシェーシカ・スートラ』についての宮元啓一の要約&翻訳を引用します。

先行無  〔結果である実体は、それが生ずる以前には〕運動や性質といった標印がないから〔認識できず、したがって〕非有である。

破壊無  有〔である結果は、破壊ののちは〕非有である。

交互無  〔たとえ〕有であっても、〔《牛は馬ではない》というように、ほかの有の否定によって、また、《荷物を運ばないからこれは牛ではない》というように、因果関係によって〕非有である〔といわれる〕

絶対無   そして、有とは異なる〔絶対無としての〕ものも非有である。

関係無   《家に水がめがない》という場合には、有である水がめと家との結合が否定されている。

 このうち、絶対無はいまいちほかの無との差異が不分明である。

 しかしながら、無について突き詰めていくと5種に分かたれるという強靭な空論力は見上げたものだ。論理学は文化非依存というのは思い込みなのかもしれませんね。

 

 

ケーガンの短編を探し出すのに苦労したけれど、ジュディス・メリルの傑作選ではなくて、ウォルハイム&カーのアンソロジーに含まれていた。

 

 京都の出版社が出している法蔵館文庫は細切れにされつつある現代人の心を修復するようなラインナップだ。

 

 

俳句とステーブル・ディフュージョン

 話題の画像生成AI「ステーブル・ディフュージョン」に蕪村の俳句の世界を生成してもらいました。

   菜の花や月は東に日は西に

絵になる俳句として有名な作品です。

 まず最初の困難は英語に翻訳すること。原意は「菜の花畑の真上の空で、月は東に上り、日は西に暮れようとしている」なのですが、「In the sky above the field of rape blossoms, the moon is rising in the east and the sun is about to set in the west.」というグーグル翻訳をステーブル・ディフュージョンはエラーとして受け付けません。この英文ですら原意をくんでいないのですけれどもね。

「月は東にあり、日は西にある菜の花畑」

Canola field with the moon in the east and the sun in the west

という味気ない英文でした。そのせいか生まれ落ちた画像はしたのようなもの。言語の壁、文化伝統の壁、美感の壁。

 まあ、こんなものなのでしょうね。

 

 

天才の不稔性仮説【再掲】

 クレッチマーの古典『天才の心理学』が説くところによれば、ゲーテモーツァルトなどの天才が直系子孫を残していないのは、よく起きる生物学的な現象であるとする。しかも、その家系の滅びる間際に天才が生じるためである。血が衰えるという表現があるが、家系の血筋には終焉があり、その最後の婀娜花が天才の出現なのらしい。

 天才は滅びの予兆なのだそうだ。

 例えば、ゲーテの長男は急死して、直系の子どもはいない。モーツァルトの直系は三代で滅んだベートーヴェンミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチにも子はいない。
 大数学者ガウスに男子がいたのが、例外か。子とは家族仲が悪く、アメリカに移民してしまったそうだ。ヘーゲルの血筋を引くのは作家のルディ・ラッカーだというが、ヘーゲルは天才というわけではないので例外だろう。

 ご当地、日本でいえば、葛飾北斎には子孫がいない。娘で絶えてしまった。平賀源内もそうだ。ご存知、南方熊楠。彼の長男は脳を病み若くして亡くなる。大学教授と結婚した長女も子どもはいなかった。折口信夫は妻さえ娶らなかった。宮沢賢治もそう。

 渋沢栄一に始まる澁澤家も三代目の渋沢敬三で...とこれは別の傾聴すべき物語りだ。傍系の子どもがたくさんいるのようだ。

 しかし、天才に子どもができないのは、別の原因ではないかと異論を立てたい。天才は人間種に属さない別の種であり、それ故「不稔」となる。天才不稔性仮説である。
不稔性とは種が異なると子孫が作れないことを意味している。

 優生学の用語でいうと天才は超人だから、凡人と種が違うのだAha!
 天才は孤立的現象であるために、配偶者が同じ「天才」種であることはきわめて稀になる。普通の凡人を配偶者を選ばざるおえない。ゆえに、子孫ができないのだ。
 はい、お後がよろしいようで。

【追記:日本人科学者のケース】
 日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹の二人の子どものうち一人は心臓発作で37歳で急逝している。同じく単独でノーベル医学生理学賞受賞した利根川進の次男はMIT在学中に自殺している。両者とも子は残っているが悲劇的な命運がまとわりついている。

ダーウィンが来たに見られる求愛行動とモテル紳士のマナー

 多く論者が異口同音にいうには女性に対してウケる、つまり、好感度アップの行動様式は、生物学、もっといえば行動生物学の知見が当てはまる。

 NHKの長寿番組『ダーウィンが来た』は、そうした事例を倦まずたゆまず放送し続けてきた。つまり、家族形成に向けての生物界の教訓を発信していたと言えなくもない。むろん、ターゲット層は「おひとり様」をよしとして少産化する日本人たちだろう。

 ダーウィン自身も「性淘汰」は重視していて、『人間の由来』はそのテーマについてだったかと記憶している(懐かしの世界の名著シリーズの一冊)

 

 女性はやはり自身を中心とした家族編成(母子の安定した生活)を当初から本能的に戦略の中核に据えていることが多い。配偶者候補の清潔さ、誠実さ、甲斐性といった特性のエバリュエーションは初期段階での重要なチェック項目になっている。

 いずれも雌の営巣本能の現れみたいだ。興味深いのはもてる男性の特徴の一つが女性の発言を重んじること、それに共感を示せることだろう。一見無意味に思える女性の饒舌は随分と重要な情報を含んでいるものだ。うむ、人間ならではのチェック項目だ。

 雄が雌の意を速やかに汲んで行動してもらわねば、私=雌はまともに子作りなんてできないのよ!的な要素だ。

 それに引きかえ、配偶者候補の外観は生物学的な評価と社会的な見かけ上の評価に二分されるようだ。

 健康&清潔であれ、臭くなくてエネルギッシュであれ、行動的でキビキビしていて、男らしさがあふれるという特性は生物学的視点でのチェック項目。

 服装や身長などは他の異性への顕示的な傾向を示す社会的なチェック項目であろう。女性の伴侶はカッコよくて社会的威信を兼ねていなくてはならないというわけだ。でもまあ、営巣&母性本能からすれば副次的な選択特性かなあ。  

 化粧とかオシャレというのは女性の他の異性への顕示行動でもあり、配偶者候補を引き寄せる戦術的行為でもある。これは女性間の競合要素になるのだろう。社会学者ウェブレンの記述では有閑マダムの外装はそうした社会的なディスプレーの行動様式として、ややもすればシニカルに扱われる。

 そもそも多くの女性にとって、適当な人込みに加わるのが好みであるように思えるが、それは顕示的行為が裏付けているのだろう。人に見られるというのは彼女らのプライドをくすぐるリーゾンデートルなのであろう。

 禿げの男性というのはここでは微妙な性質となってくる。これについては男女間で深淵があるようだ。

 

 

 

 

 全国の男性有志諸君、ダーウィンが来たをみて、それとなく学ぼう。

CWIJ チョイ悪、いらっとジジイになりましょう! 

この世はシュミレーション(シュミレーティッドリアリティ)へのささやかな不平

 『マトリックス』がこの世はシュミレーションという考え方を世に広めるのに預かって力があった。それ以前にもSFでは同様のアイデアをもとにした小説があった(例えば、レムの泰平ヨンシリーズ)

 その淵源はプラトンの洞窟の比喩にあるらしいことは、この「水槽の脳」のWikiを眺めると推察される。

ja.wikipedia.org

 

 「この世はシュミレーション」仮説に対して少々、異議を申し立てておこう。

その発想の原点はコンピューターシミュレーションであるのは確からしい。

その時点で、

・シュミレーション対象は「モデル」化された模造物である

・デジタル化されるデータは「可視化」される物理量だけである

という事態に直面する。

 台風はいくらスーパーコンピュータで精妙に模擬実験されようとも実験室を水浸しにしないとはよく言われる。シミュレーションの対象は「実在物」から切り取った観測可能な量であり、それを流体力学や弾性論や天体力学などの方程式で間を紡ぎ合わせているだけである。

 あるいは、都市空間や屋内をAIが三次元空間として自動生成して現実世界と区別できないと驚くのはいいが、それはゴーグルの内部だけ、あるいは画像という「洞窟の壁への」プロジェクションのなかでのお話だ。リアルとは異なる現象世界のお話しなのだ。

 それに加えて、そこでの生成データが可視域、可聴域に限定される。ディスプレイに映し出された世界はアニメと同様に、文明化された人間向けのコンテキストで裏打ちされた社会的な構成物であろう。不要なもの、夾雑物はデジタル化されない。

 昆虫や微生物などは捨てておかれる。あるいは臭さや不快な湿度などの余計な感覚もだ。シュミレーティッド・リアリティはアニメと同様に見たいものを視覚化しているにすぎない。言ってみれば、RPGゲーム世界のようなものだ。

 それは理想的な現実を創造した。プラトンイデアに近いといえばそうかもしれないのだが、それでは現実離れした「リアリティ」になってしまう。

 これだけで自分にとっては「この世はシュミレーション」はにべもなく拒絶できるのだが、逆に現実世界の複雑性には圧倒されるという驚きがひとしおなのだ。

 類似な発想が全脳エミュレーション研究だろう。人の脳内のニューラルネットワークを同規模のコンピュータ上のニューラルネットワークモデルで模擬しようとする研究だ。人の思考や能力を再現しよう試みなのだろうが、これは下手をすれば何を検証しているかわからなくなる惧れすらある。そもそも脳は電気信号のワイヤーの束ではないのだ。グリア細胞などはどうするのだろう?セロトニンなどの脳内ホルモンは?

 全脳エミュレーターがフル活動したからといって、あなたの隣人と同じであるという保証は何もないし、何がエミュレーションモデル内で起きているかも理解しがたいだろう。

 リアルとモデルの対比という点で歯車仕掛けの天球儀と太陽系はシュミレーティッドリアリティとリアリティの相似になっている。見かけは同じだが天球儀は地表からの太陽と月や惑星の動きしか模擬していない。同様にシュミレーティッドリアリティは見せかけの模写にしかならなっていない。機械仕掛けの神という言い方があるが、コンピュータ上で生成されたものは機械仕掛けのミミックだ。

 

 奇態な想定例で説明しよう。人体の精妙な素晴らしいシミュレーションがあったしよう。あらゆる臓器の形状や物質の交換、温度や血液リンパの詳細まで現実の人体そっくりだとしよう。

 だとしても、それは養老先生が指摘しているようにその時代時代での人体の見方に制約を受けている。例えば、臓器の発する振動はそうしたモデルでは捨象されるだろう。  

 かつていかなる研究者も内臓の振動による相互作用など研究も注目もしていないだろうからだ。横隔膜の振動が鼻腔の構造と関係がないなんて誰がいえる?

 けれども将来、臓器間のコミュニケーションに振動は重要だという発見がなされたら、そのシミュレーションは瑕疵物件となってしますう。

 

 

サイバーセキュリティにみる世界の再魔術化

 世のなか、RPGゲームだのファンタジー映画だのが幅を利かせている。それと同時代性を持っているのが、サイバーセキュリティにおける防衛と攻撃(サイバーアタック)だ。

 やっていることは、それぞれの高度なテクノロジを使っているにはいるのだが、その見かけは「呪文」の掛け合いでしかない。

コンピュータ言語仕様に基づいた攻守を展開する有り様は、魔術師のようでもある。

情報セキュリティと異なるのは、それが現実世界に出没しているからだ。

 スマホだけではない。電力システムや輸送システムや家電にまでその呪術の影響は広がりつつあるのだから、穏やかではない。

 近代に入る時代診断を「脱魔術化」あるいは世俗化とした社会学マックス・ウェーバーはこれを何とみるだろうか?

 


www.youtube.com