日本語の「気」はいたるところで顔をのぞかせる。ひとたび気になりだすと、気が散るくらいに気になる気のつく言葉がゴロゴロしている。
「気をつけてね」と何の気なしに送る言葉に、こもる気合がある。家人が「気」をともなうことで、何故安全安心になるのであろうか?
気とは身にまとえるものなのだろうか?
いずれにせよ、「気合」を入れると臍下三寸に力がみなぎる気配がある。これってプラシボか?
逆に、気をつかうのは何かしら不可視なエネルギーを消耗しているのも事実だ。
近松門左衛門の作品に頻出する「気」は気遣いで、280にもなると中井正一は数え上げた。主人公を心中に追い立てるのは気なのであろうか。世間に対する顔向けから気おくれ、気をもみ、気がつきるのであろうか。
言葉はそれ自身のリアリティをもつ。何の気なしに使う言葉は、その人を支配しているといえまいか。とくに「気」のような何気なく偏在する言葉には気をつけたほうがいい。
中井正一の『気の日本語としての変遷』はそうした日本人の気について、格段の冴えで教唆してくれているようだ。
- 作者: 中井正一,鈴木正
- 出版社/メーカー: こぶし書房
- 発売日: 2003/08/01
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