サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

SFの根源的な愉悦について

 久々に大作SFを読み出している。
アレステア・レナルズの『啓示空間』(ハヤカワSF文庫)
 本書の発売は2005年だから、それほど新しくはない。その文庫本としての厚さは圧倒的だ。1000ページ強。
なので買うのも読むのもためらっていたが、先般意を決して買った。
 同時に自炊し、pdfにしてスマホに仕舞い込んだ。文庫本よりもスマホの方が軽いわけである。
余談はさておき、SFがもたらす本質的な快感として、「人間の境界を超える」というのがある。想像力のもたらす仮想の芸術=語り物としては、ここが一番の特徴ではないだろうか?
 「SFは絵だよ」と野田宇宙軍大元帥が語ったのは一理あるが、その表裏一体として人間の限界状況を踏み越えて、幼児的全能感を回復するというのがある。
 時間や空間、それに生命としての限界をやすやすと凌駕する能力を持ち、社会的動物としての義務などの価値観を横超するのだ。それを宇宙空間という大舞台で、ところ狭しと移動する。さらには極限的なテクノロジーを操り、人知と認識の高みに到達する。
 これは神の領域を摩する思考の逸脱であろう。
『啓示空間』ではシュラウドという想像を絶する異星人文明のメガ構造物が登場する。威圧的なそのスケールと意味の隔絶を乗り越えるために、多型化した人類の子孫たちが挑むのだ。ネタバレかもしれぬが、この小説はフェルミパラドックスの一つの解決案がモチーフにあることも言い添えておく。
 これをアホくさいという指摘は身も蓋もない真実だ。技術も経済も現実にはなんにも関係しない絵空事ではある。

 しかしながら、20世紀的な科学技術のあるべき姿、その目指したことはこのような絵空事だったのだろう。それと比較すれば、蟻どうように地面に張り付いてうごめくのが、人類の現状である。餌を巣に運びフェロモンにより社会的振る舞う。競争と闘争を繰り返しながら、蛹である子孫を育成する。それはそのまま現代人の営為だ。
 それが平均的市民生活に例えるなら、その制約を完全に忘れ去り、異質な宇宙と時間に身をおくことは、慣例的反復的な思考から一時的に抜け出すことにもなる。コンクリートと人の顔だけに囲まれた日々の環境から超越した、鳥瞰的なビューを愉しむことである。
 同じ穴のムジナであるファンタジーやゲームとSFとの差異を強調しておこう。近代的な宇宙像、地球像や生物理解あるいは自然哲学(それはしばしば野放図な形而上学である)が良質なSFの有効成分である。それが世界観に通底する、仮説的虚構的な宇宙の根源への短絡的通路へのアクセス権をもたらす。まさにそれが自分の愉悦の由来だと感じている。
 ファンタジーやゲーム、恋愛小説の住まう世界はもともとは虚構のための虚構で、そのなかには世界像を理解し、限界状況以外の生を乗り越えるなどというのは、そのスコープの外にある。
 宇宙を庭のように闊歩し、人類とかけ離れて異質のものや理解を超えたものと正々堂々と対峙しながら、乗り越えていく。
 そういうフロンティア的な夢想の愉悦は、良質なSFしか与えてくれないのではないかな。


啓示空間 (ハヤカワ文庫SF)

啓示空間 (ハヤカワ文庫SF)