サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

道教でいう真人と認知症

 万物斉同の境地に達すれば区別はなくなる。それこそがボケの達人だ。
今どこにおり、今がいつなのかといった見当識すら投擲できるのが、スゴイ。
森田療法で有名な森田正馬は末期の病床で、昏睡から覚めて見当識がないことから、死の迫るのを自覚しさめざめと泣いた。
まさに真人だ。
 悲しければ泣くし、楽しければ笑う。情緒は純のままにして、その生きざまにはなんの衒いもない。
鈴木大拙もそうだったという。愛弟子であった柳宗悦の告別の辞において、この世界的禅者は声をあげて泣いたそうだ。
ボケてもいいのである。天衣無縫の真人が現出すればボケと区別できない。
 
 武道にも認知症的な脱人的境地があるなどと言うとアチラコチラからお叱りを受けそうだが、「ボケによりそうした境地に達しうるのではないか?」と問うことをお許しいただきたい。
 ジャッキー・チェンカンフー映画にせよリメークものの「ベスト・キッド」にせよ、あるいは「スターウォーズ」におけるジェダイの騎士のマスター、ことにヨーダにせよ。武芸における老師なるものは優れて東洋的であり、西洋における優れた騎士や戦士といったものには「老い」は皆無であった。
 こうした映画では当初、老師はどう振舞うか、いやはや全くのところただの老いぼれだ。庭師であり、隠遁者のフリをする。力の誇示とは無縁であるが、ストーリーの展開につれて、深い技と智慧の体得者として立ち現れてくる。

オイゲン・ヘリゲルの弓の師匠は小難しいドイツ人学者を心技で屈服させた。ヘリゲルのこの書物は戦前のドイツにおいて日本精神への小さなブームを起こした。
確かに、暗闇において的を射抜く眼力は只者ではない。単なる技量を通り越している。

弓と禅 (禅ライブラリー)

弓と禅 (禅ライブラリー)

 しかし、東洋的な深さはこれでも足りない。メリケンなサクセスストーリーも客引きにはいいかもしれないが、真の達人は超俗的なのだ。実利や栄誉を埋没しさるのが真人である。
 寒山拾得を見よ!

座右版 寒山拾得

座右版 寒山拾得

なんだか背筋が寒くなるような生き方だ。

寒山詩を引用しよう。


寒山頂上月輪弧
 
照見晴空一物無

可貴天然無価値宝

埋在五陰溺身躯


これに、西谷啓治の注釈があれば完璧だ。

そう!マスターヨーダ認知症ならば、寒山などは差詰めアルツハイマー症なのだ。