サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

理学と神道

 大げさなテーマを羊頭狗肉的にかいつまんで語ろう。理系なヒトなのにその同じヒトが神社が興味津々なのはなぜか、をまとめおくのだ。

 神道アニミズムはお隣り朝鮮半島にも、漢人からなる中国本土にもほとんど残存していない。
 それは日本人の古代性の証しである。
 あちこちに「神々のやどり」を感取する能力というか、わざわざ招来して祭る習性というか、そうした未開性をたぶんに宿しているのが、この島国の特徴なのだ。そのくせ、義務教育や識字率、工業力や技術力は先進国なみである。
 世界でこれに似ているのはアイルランドくらいなものか。カソリックが全土を制覇したこの国には片隅に妖精信仰があったりする。

 いかんせん、この国には150年くらいの開化の歴史しかない。しかも、天皇制という古代の名残をとどめての近代化推進だった。明治維新は宗教的には復古型だった。

 書き残したいのは歴史のハナシではない。
 そうではなく、日本固有な古代性のなごりが、どうして理学系の人間にも作用しているかを自分なりに納得するかたちで表現しておきたいだけだ。

 その「不思議」さである。なぜ、わざわざ不可知で感知しえぬ聖性をそこ・ここに残存させるのか?
 製鉄業の最先端の高炉のそばに、どうして神社があるか? IT企業の社屋に神棚があるのか? 可笑しみのある「不可思議」である。自然界の畏怖すべき火山や滝や巨石に注連縄をはるのは分からぬでもない。しかもなお、人工物に神社を配するのはヘンだ。ロボットに「何々チャン」と名前をつけるのと同じ感覚があるようだ。
 だが、これは自然界の法則の存在に対する「不思議」さと一脈通じるものがある。
 それが自分の感慨である。
 ニュートン力学やマックスウェル方程式で一元的原理的に語れる自然界は、不思議である。しかも、街角や社屋、小高い丘に社を配置して聖なるものを崇めるのも不思議である。
 自然法則では、語りえぬものがどうしてもある。大型加速器素粒子を自在に操り実験できても、溶液中の水分子の振る舞いを精確に観測・理解できない。
 ゲノムが解き明かされて生物は全部余す所なく理解できたか? とんでも無いの二乗である。
 地球の気候変動がスーパーコンピュータで完全に計算可能か? これまたとんでもあり得ないの三乗だと思う。まして宇宙をいくら高性能な観測装置で計測しても、井の中の蛙状態である。

 理知で扱いきれない宇宙の大部分を掬いとれるのは、宗教的な感覚しかあるまい。これも一種の「驚異の感覚」(アリストテレス)である。
 理学のセンスと根は同じだ。そのもっとも素朴なフォルムを残す神道アニミズムは理学的な論理がまったく介在しない可笑しな宗教である。
 代表的思想家の本居宣長の理屈が「もののあわれ」であるのが好例であろう。理屈や理論ではなく感覚・感傷・情感なのだ。ミソギや参拝の礼であり、なかんずく祭礼での奉納の儀礼であるのだ。
 よって理学と完全に相補的である。ボーア的な曖昧表現であるが、相補的なのだ。
 いかんながら、西洋系の科学者に神道アニミズムを奉じているヒトがまったくいないのは無念だ。しかし、当人である日本人がどうにも説明できないのだから、仕方がないようだ。

 神話学者ジョセフ・キャンベルの『神話の力』の冒頭にある逸話がいい。

 国際的な学会で、ニューヨーク出身の学者が日本の神主に問いただした。
「長いこと研究してもあなたたちのシントーイズムのイデオロギーが、神学がまったく分かりません」
 すると神主はいく分考えてから答えたそうである。
イデオロギーなどないと思います。わたくしどもに神学はありません。わたくどもはただ踊るのです」

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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