理科と文科への分けのオリジンはアリストテレスの学的体系にあるという。近代科学はその指導理念に忠実に倣った構造を維持している。
西洋の学芸はその基盤のうえに築かれた。
アリストテレスによれば「学」は実践的な学、制作的な学、そして理論的な学に分かたれる。
ここで重要な学は理論的な学である。そこには3つの学が含まれる。
自然学、数学、神学である。アリストテレスによれば、おそらく神学が最も望ましい学とされる。
現代社会では前者二つが異常に発展した。古典期に比較して、理科の過度な肥大と言って良いだろう。
自然学と数学の極度な発展は、数理言語の精密化によるところ大である。その代表はコンピュータである。数学と論理学の精髄がこの論理演算と数値計算の電子機械に詰まっているのだ。
自然界を記述する数理言語(数学と論理)は、物理学や化学、社会科学において強大なパワーを持つ。それは精妙でありほとんど議論の余地のない正確さで対象を言い当てる。
しかし、「ノイラートの船」の喩えにあるような科学の相補性、あるいは時代の要請に合わせながら学が互い違いに人間社会の要請に応えてゆくということはあるだろう。
ノイラートの船とは洋上に浮かぶ一隻の船に現代社会を喩え、その生存のためには船の補修が絶えず起きる。補修を担うのはそれぞれの専門家、帆の補修、甲板の修理、船体の補強などなどの専門家であるとした時、その専門家なるものが個別の「学」に比されている。
海洋上というのは「実在&真理」なるものは確定的ではないこと、時代時代での社会の問題はそれ相応の「限定された真理」なるものを充てがうしかないことを示唆している。
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それ故に、恒久的な真理なるものはない。しかるに現代社会のなかで、自然科学(アリストテレスの自然学)は特異的な位置を保っている。エネルギーと資源を大量に補給されることで維持される現代社会なるものは自然科学とその実践学としてのテクノロジーで絶えず補修されている。
つまり、自然科学は、もっとも本質的なレベルでの社会フレームの仕組みの実現に関与している。
このノイラートの船では、原子力や石油資源は不可欠だ。
だからこそ、一つのイデオロギーとして「自然科学」信仰が優位になっているのだ。
だが、自然科学は自然言語で表現できるほんの一部分、部分集合であることは確認しておいた方がよい。
ヒトが表現したい事態を完全に言い尽くすことはできないが、それを言い違えることなく他者に伝えることは曲がりなりにもできる。
「ひねもすのたりのたりかな」という感じや「あれは人魚ではないのです」という言表を数理言語で表示することはできない。ならば、それらは確定的な真理を表現するためには自然言語でも十分ではなく、その部分集合の数理言語ではもっと足りない。
一般に言語を世界を理解する道具と見なすならば、自然科学は実在表現と理解については、半分以下なのだと思うのだ。
ある意味、アリストテレスの方が現代科学者よりもより確定的な真理に接近した精神にあったはずだ。
古代の哲学者はアインシュタインやラッセルよりも深く広く真実在をわかっていたのだという感がする。
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*1:ナチに追われてオランダから北海を彷徨いながらイギリスに逃げたノイラートらしい比喩だ。