八木秀次と湯川秀樹の関係をメモしておこう。
八木アンテナで世界の電子技術者たちを唸らせた八木秀次は、本来は工学者である。
だが、その実績を長岡半太郎から買われ、阪大の理学部を創設の中心人物となる。長岡半太郎は物理学会のドンだった。日本の第一号理学博士山中健次郎を学士院会員から辞退させたのも彼の存在だったとされるし、寺田寅彦も頭が上がらなった。その長岡が認めたのは八木の実力と実績だった。
阪大は旧帝大のうちで最後のほうに生まれた。いかにも大阪らしい生まれ方だ。
地元がワイらの学問中心を作らんとして、民主導で資金を調達して誕生した帝大である。
八木は阪大教授陣の人選を実力主義(これは東北大の当初の革新力でもあった)で進めた。
京大理学部からは朝永振一郎を採用しようとしたが仁科芳雄に拒まれた。湯川秀樹は二番手であったという。八木は湯川を見込んで阪大教授にしたというより、縁戚筋からも請われて止む無く阪大に迎えたのだ。
湯川秀樹には無論文癖があった。無口であった湯川のあだ名は「イワン=言わん」
それと同じくこの野心家は論文を書くのをためらい、外遊するのも躊躇した。講義は拙劣であったという。卒業後、5年間無論文であった。
八木秀次は痺れを切らし、叱責したと伝わる。
かくしてその叱責から一年後に「中間子論文」が生まれた。初めての論文で英語で書き
しかも、それでノーベル賞を勝ち得たのだから、おそれいったことである。
やがてこうした論文執筆の経緯が学者仲間で広まるにつれ、また、戦後湯川の名声が
揺るぎないもになるにつれ、湯川は八木秀次と疎遠になる。
確かに、おおいにハッパをかけられたからといって学恩というわけでもないであろう。工学と物理の敷居もあろう。しかし、阪大に招かれた恩義というものはあっただろう。
ということで、湯川のノーベル賞はいかに不思議な歴史事象かは確認しておいたほうがよい。朝永振一郎のようにハイゼンベルクの教えや仁科芳雄の薫陶があったわけでなく、量子力学の授業も研究室もなにもないところで、いきなり「新素粒子の予言」を処女論文にして、一夜にして有名人となったのだから。
孤立した事象であったのが、いかにも型破りなのだ。其の後に理論物理学の梁山泊が京都に生まれるのは、やはり、そのインパクトの大きさを物語る歴史的な出来事である。
- 作者: 湯川 秀樹
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湯川秀樹の米国製ドキュメンタリのDL(やはりアメリカにも驚きだったのだろう)
U.S.I.S.『THE YUKAWA STORY』mp4