『サブカルと自然科学の変遷相似則』でも述べた内容のバリエーションでしかないが、科学者のモデルもサブカル・ヒーローと同じ変遷を辿っていくのが見える。
1960から70年頃の少年向け漫画のヒーローはアメコミの影響を受けて、孤独な、あるいは突出した能力のある個人だった。「スーパーマン」あるいは「バットマン」や「スパイダーマン」を思い浮かべていただいていてよい。日本では「鉄腕アトム」「エイトマン」などか。
アメリカのスペースオペラも「スカイラーク」シリーズや「キャプテン・フューチャー」
という心身ともに健康優良な天才科学者たちの跳梁跋扈するミラクル世界だったわけだ。
それは偉人伝中の科学者像がリアリティを保っていた時代であったからだろう。
ところが、いつのころからかそういう個人プレイは影を潜め、チームになりだす。代表格は「サイボーグ009」「科学忍者隊ガッチャマン」などだろう。その流れがレンジャーものとして定着するのだろう。
そうしたなかで、アメリカで1966年「Star Trek」が放映開始されるが、やがて70年代の日本のアニメでは集団に属するようになる。戦隊としての派遣軍方式「宇宙戦艦ヤマト」が1974年にその先端を切った。
これに並行して、科学のビッグサイエンス化が顕著に進むのが1970年からだ。それまでに、素粒子研究も個体電子科学や宇宙観測も研究集団化が進行していた。
少数の科学者が机の上で素晴らしい理論を編み出すなんてことは過去になり、実験結果も手作り装置で目覚ましい発見をなすことは、ほぼ皆無になっていた時代が1970年までの実情だったようだ(20世紀科学史の資料でバックアップしてないけど)
ともあれ、1980年後半にはボーアやアインシュタインやフェルミのような英雄譚は過去のしろものだったわけだ。
何事か最先端の発見を為すには先端技術と理論家たちの場に所属する必要がある。それをCOE(Center of Excellence)とか言い出してくるのもその頃からだ。
ガンダムの時代には組織の使いぱっしりとして駆け出しの若者はこき使われるようになる。アムロのおかれた「戦場」のような職場となっていたわけだ。それでも幸運に恵まれれば、その殊勲は名誉あるものとして社会的認知もされたであろう。
だが、時代が進み世界各国で共同で巨大加速器(CERNのような)や天体観測施設(アタカマ砂漠のALMAのような)になってくると世界中から、選ばれた研究者が集められ、「巨大組織」の一員、というよりは「パーツ」にならざるを得なくなる。
「個」として科学者はもはや存在しない。仮にノーベル賞級の発見をしてもその栄誉は個人名には関係なくなってしまう。組織に埋没するようなそういう職業になってゆくのだ。
「栄誉」とか「尊敬」といった社会的認知とは無縁な「エヴァンゲリオン」(1995-1996)の未成年たちの世界だ。ネルフという目的不明の組織に従属させられる未少年たちは否応なしに不条理な戦闘に巻き込まれる。そして、最終回での碇シンジの無力感の獲得。
これはある意味、科学者たちにとってお馴染みのストーリだったのではあるいまいか。そういうポストモダン的な風景が1990年代に拡散した。
2000年以降はどうなのだろう?
「ゼロ年代の想像力」のSF評論家の宇野常寛によれば、そのコンテンツは端的に「サバイバル」なのだそうだ。
科学者たちも高学歴ワーキングプアと皮一枚の生活が始まっている。いっそう、過酷な競争社会にさらされているのだ。
それというのも科学者は史上最高の人数となったが、そのための国家予算は先進国では伸び悩む。成果主義と管理の締め付けは厳しく研究ポストは限られているのだ。
【参考資料】
- 作者: ジョンザイマン,John Ziman,村上陽一郎,三宅苞,川崎勝
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