サイエンスとサピエンス

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ロシアの宇宙精神 奇書『ノースフェーラ』

 ロシア人の精神はつくづく西洋とは異質なものと感じる。その代表はヴェルナツキイ(1863年-1944年)という地球化学の創始者の特異な思想だ。この人はソ連の代表的科学者であった。


 晩年のヴェルナツキイ


 宇宙精神の発露といってもいいその思想はコスモロジカルでミスティックでありながら、自然科学を基礎にしている。
 その書物の名は『ノースフェーラ』
 副題は「惑星現象としての科学的思考」なるタイトルからして、エキセントリックだ。
 書名は叡智圏を意味するのだ。そう「ヌースフィア」と同じ意味なのだ。
 いかにも宗教的奇人が喜びそうなテーマだ。事実は、一流の科学者が書きあらわしている。科学的根拠をもとにしたスペクタキュラーでかつ高度なスペキュレーションである。
 まず、発想がいい。近代自然科学の発達を地質学的な力の発現と捉えている。生物圏は地質学的な層の一つである。
「人間は、われわれの惑星の一定の地質学的な層である生物圏(バイオスフィア)と分かちがたく結びついている」
 また、他の地質学的層との生物圏の違いは「組織性」であると教授は考えておるようだ。
 今や生物圏はジオイドより40キロ高層にも4キロ低いところにも浸透している。
 叡智圏(ノースフェーラ)は生物圏の次段階なのだが、その実態は「科学的思考」そのものなのだ。つまり、科学=真理の集合体というわけであり、科学のみが人類を発展させ、その精神を拡大する叡智なのだとヴェルナツキイは言い切ってみせる。
 科学者たちはその真理を拡大発展させるミッションをもつ神官たちであるとヴェルナツキイは思いなしているようだ。地球規模で共通の真理を構築が開始されたのが偉大な20世紀であるという。
 なるほど、その進化論かつ地球科学的発想はテイヤール・ド・シャルダンの思想に似ていなくもない。事実、ヌースフィアの生みの親としてこの両人の名があがっている。
 だが、ソ連圏でスターリン時代を生きた科学者としては「神」などはあってはならないであろう。カソリック神父のテイヤール・ド・シャルダンには必須の概念だが、ヴェルナツキイにはキリストやオメガ点などは無用の仮説であった。
 モスクワのソクラテス、あのフョードロフ思想の残響があるのも事実であろう。この偉大な図書館の司書は宇宙的ビジョンの持ち主であった。ロケット工学の父祖ツィオルコフスキーはフョードロフの弟子筋だ。

 インターネットあるいはICTはノースフェーラの亜種と見なせるのではないか。科学技術の頂点でありテクノロジーの粋を集めているし、地球全体を網の目のように覆っている。行き交う情報はパケットというデジタル化された信号だ。新しい産業や発想、人びとの行動を完全に支配している地層のようなものだ。
 ヴェルナツキイは「科学技術の歴史は組織性を強化する歴史だった」と語るのを聞けば、インターネットはその具現だといってもいい。電子メールやSNSクラウドファンディングなどが良い例であろう。
 ICT(Information and Communications Technology)は有線・無線を問わず、地球の大気圏を被覆し、ひとつの「地層」となっている。
 ICTは国や民族を越えて人びとを結びつけている。シェアエコノミーのように新たな所有、ブロックチェーンのような新た取引形態、通販や電子政府など多くの組織がICTによって再構成され、進化するのを我々は目撃しているところだ。
 社会のあり方を大きく変容させているのはICTこそは、ノースフェーラの代表なのであろう。

 『ノースフェーラ』はハードSF好みなファンであれば良質なサイエンス・フィクションとして愉しめることは請け合いだ。超異質でありながら、一級の思考力で天界を雄飛させてくれるような本書にはそうそう巡り会うことはない。

 いずれにせよ、当該奇書が手軽に翻訳が読めるのは桑野隆氏と水声社のコラボの賜物である。

 彼の「バイオスフィア」はアメリカ人によって換骨奪胎されて生態学的な閉鎖系の実験施設につけられた。
 だが、この壮大な実験は失敗に終わる。

バイオスフィア実験生活―史上最大の人工閉鎖生態系での2年間 (ブルーバックス)

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