サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

理系が読む老子

 これは「老子」の忠実な解釈でもなんでもない。老子が思想的かつ宗教的な叡智の遺産であることは否定しようもないが、やはりそこに自然科学や工学、ひいては数学的な思考の萌芽があるのは確かだ。
かつてサボーがエレア学派の思想から読み解いた公理主義(ユークリッド幾何学のロジック)の論理の例を引くまでもなく老子は自然界の原理を言い当てているに違いない。それもユニークで原初的かつきわどいスタイルで
現代人を瞠目させる指摘をしているのだ。その妙味を言い当てようとするのが本稿の狙いめである。

 始めて現れた書物は起源の書であり、聖なるものについての記録であったと概括できる。ユダヤ人の「バイブル」、イスラムでは「コーラン」、ヘレニズムにおけるホメロス叙事詩に含まれる神話、中国では「四書五経」「諸子百家」、日本では「三教義疏」「記紀」などであろう。しかも、こうした書物は最初期の人物とともに甚大な影響をもちその後の流れを決定づける運命をもつ。
老子」がそれらのうちでも人智を尽くした思索の書であり、地位的に一番似ているのはギリシア初期哲学の
断片であろう。とりわけ、紀元前6世紀から5世紀ころのギリシア自然哲学(ミレトス学派)との同時代性があるのではないか。老子の生きた時代も紀元前5世紀頃とされる。
強度に凝縮された表現はヘラクレイトスの文章とも似ている。両者とも含蓄がある。政治的な隠者でさえあった。

 ラッセルによれば人生や世界についての考えは二つの因子の所産である、宗教的・倫理的な概念と科学的な探求である。
 であるならば老子は別名道徳経であり、政治哲学ともされるが、科学的探求を要素を含んでいるのだ。しかも、政治・倫理と一体的に科学を追求するのが計り知れない独自性を生み出している。かのマイケル・サンデル教授も引用すべきだろう。

 自然科学的な解釈の例として、「カオス」を老子の混沌と即座に等しいものと見なすことは多大な困難がある。それは承知であえて混沌を語ることに何らかの価値があるかもしれない。
秩序と混沌は科学的には反対の性質であるが、老子においては必ずしもそうではない。しかし秩序は人為のなす技であり、かつ一定の秩序のもとにのみ人智も成り立つのであってみれば、混沌のほうがより射程が広く根源的な状態であるのは何となく分かる。

老子の混沌はとてつもなく西洋哲学の対極にあり、日本文化の深い部分と共鳴しあう老子の思想を解釈しなおすことは、おそらくやり甲斐のあることであろう。


道の言うべきは道にあらず。

 老子は名付けられぬものになぜ道と名付けたか。
最適世界のアナロジーを使うことにしよう。
日常語でもある「道」を老子のいう道であると妄想してみよう。道はつねに我が眼前に広がる。道はどこかに
つながる。道はどこかに我らを導く。老子は名付けられぬものになぜ道と名付けたか。
道を産みだしてきた文明 そこから踏み外してはならぬ場、要所要所に導く筋、他人が通る空間
当たり前過ぎるとなにも言えなくなる。

 
道とは 「筋道 経路パス 外面的な動き 生き方 やり方 方法 経路 事物の運動する軌跡」と捉えておこう。道が何かと訊かれたら、目的地はどこ?と聞き返すわけだ。
道は日本文化に色濃く影を落とすようになる。