科学基礎論の覇者カール・ポパーと論理哲学の王ウィトゲンシュタイン。この伝説の男たちが対峙した一夜があった。その場にはイギリス貴族の末裔にして当時の哲学界の大審問官バードランド・ラッセルがいたとなると歴史上の単なるオモシロ・エピソードではなくなる。
ときは1946年10月25日の金曜日の晩。場所はケンブリッジ大学の一室。
「火掻き棒事件」として後に知られるようになる事件である。このエピソードはポパーの自伝『果てしなき探求』でポパー側の証言のみがふつうの日本人には記憶されている。自分もその一人だった。
短い激論の後で火掻き棒を手にしたウィトゲンシュタインにポパーが「ゲストを火かき棒で脅すなかれ」と言い放ち、そこで「歴史的邂逅」は終わった。ウィトゲンシュタインは興奮してその部屋を出ていった....というものだ。
いかにも超俗の哲人ウィトゲンシュタイン、良識の人ポパーの面目を伝える挿話、として頷いた人は少なくないだろう。
久々に再刊された『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』で、その深い歴史的背景と二人の出自とラッセルらの人物との関係が活写されている。
そして、火かき棒事件が第三者の証言からしてポパーの記録に大きな「?」が突きつけられる。まさに証人の発言は嘘の記憶が混入するの一例になる。
簡単に二人の哲学者の類似点を言えば、オーストリアのウィーン出のユダヤ人であること。二人ともラッセルをその精神的な父とみなしていることであろうか。もちろんウィーン学派との関係もある。
けれども、どちらかと言えば、同じ分析哲学の土俵にいながら、二人は両極にいたといえる。だからこそ、対決と邂逅は一回きりであり、その後は二人ともお互いの存在を無視しあったのだろう。
日本での扱いもなかなかすれ違いの構造をそのママに継承しているようだ。ウィトゲンシュタインには幅広い支持者やら共感者がいる。それに引き換えポパー側には一連のポパリアンと科学者の固い支持層がいる。
ウィトゲンシュタインの見方を共有する人びとには論理哲学、数理哲学はもちろん人生哲学からモラリスト、歴史研究家や建築系宗教系、それにLGBT系までいる。
ポパーは晩年、京都賞までもらったが、科学哲学の関心を持つ専門家グループから離れるとかなり局在的な支持者か関心者しかいなくなる。しかし、反証主義は科学哲学の覇権をもつように思えるし、その信用度は高いようだ。それに、ウィトゲンシュタイン学派はいないだろうが、ポパー学派は存続している。
ウィトゲンシュタインはその全集が大修館書店から出ているが、ポパーの邦訳全集はない。そうはいっても主要な著作は邦訳があるし、今でも大半は入手可能だ。ただ、ウィトゲンシュタインほどの広がりはない。ウィトゲンシュタインの関係本はそれこそ歴史研究家や建築系、宗教系、はてはLGBT系と色々とある。
ただし、大乗仏教系アプリ本には呆れたとしか言いようがない。神話学のデメジュル理論の日本神話適用と同じくらいのインパクトと違和感がある。
ポパーには唯一の例外を除いて文庫版はないが、『論理哲学論考』の文庫は数種ある。
哲学界を見回してみる。ウィトゲンシュタインには対比されるべき好敵手はほぼいない。彼自身の思想はそこで閉じていて、論争を呼ぶというより解釈されるのを待っている。クリプキの事例が典型だろう。
それに引き換え、ポパーは好敵手に恵まれている。とくにトーマス・クーンのパラダイム論と相克はいまだに引きずっている。ファイヤアーベントもそうだ。
そうしたライバルがいるのはポパー哲学が一貫した体系となっているからだろう。
両者とも「教祖」的ではあるが、だいぶ異なったユダヤ系の預言者、それこそエゼキエルとヨブほども違いのある預言者の末裔であるような感がする。
【参考資料】
邂逅とスレ違いの歴史的事件を扱う哲学史の良書で訳も練れている。ところで訳者は伝説のサイト「アリアドネ」の主催者であり見識のある学者でありながら、非常勤講師のままとは日本の大学も低レベルだといいたい。
ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎 (ちくま学芸文庫)
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ポパーの自伝。90年におよぶ彼の長い人生からすると「半伝」と言うべきか。ラッセルの自伝と同じほどの読み応えがある。
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ウィトゲンシュタインの断片から生み出た恐るべき学説「規則のパラドックス」。アメリカの神童クリプキも魅了された後期ウィトゲンシュタインからの副産物だ。
ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心
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