サイエンスとサピエンス

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なぜに原子力工学に第二のフェルミは出ないか

 シカゴ大学にはフェルミ研究所がある。彼はアメリカに亡命して、ここに職を得た。
ご存知のように、フェルミは理論と実験、両方共超一流の業績を残した。
フェルミディラック統計や彼のベータ崩壊の理論ではニュートリノを予測している。原子炉の原型を作り上げたのはフェルミで1942年のシカゴでのことである。
 別にフェルミの業績をどうこう評論したいのではない。疑問があるからだ。
なぜ、その後原子力分野では、このような天才、言い換えれば巨大ブレークスルーが生まれないのであろうか?

 いろんな学説が考えられる。
 科学分野の始まり=創世紀にしか、天才はいない。その科学分野の誕生の一撃を与えるためには天才が必要なのであり、発生してしまえばその役割は終わる。それ故、科学を生み出す天才は建国の英雄のようなものだ。その業績を振り返る後代の学者たちからすると「天才」のように見上げる存在に変成されているだけだ。

 そういう醒めた議論もあるかと思えば、
 科学の立ち上がりが一番、創造的な時期であり、幸運と才覚に恵まれてそれに参画した人々が天才になるのだろう。それ以降の科学には天才は必要ないし、必要のないところに天才は生まれはしない。
 というような悲観論もあるだろう。

 特に期待を集めていた原子力においては核分裂核融合においても、大きな技術革新は必要とされていたにもかかわらず発生しなかったことに注目しておきたい。
 なぜか期待されていたほどの巨大な進歩はなかった。研究のための装置と費用は巨大化したが、その進歩は微々たるものだだった。それは事実だろう。
 この仕組の巨大化は天才の発生を妨げる麻酔ガスのようなものだ。完全に新規な枠組みを思いつき、それを実験できるのは科学の初期、身の丈にあった楽園期だけである。
言い換えると「肥大した組織」をもたないでも研究できるのが条件なのではなかろうか。その楽園にのみ天才は生まれのではなかろうか。

 ここで比較したいのが電子デバイスに関わる分野である。
半導体物理においてはどうやらフェルミ並の天才が何人か輩出しているのである。バーディーンなどは二回もノーベル賞を受けた。半導体の急速な普及によりその重要な分岐としてコンピュータ科学が生じた。ここでも幾人もの異才が誕生している。
 原子力にはこのような発展はなかった。家庭用原子炉は生まれず、鉄腕アトムもあり得ない。気軽に扱えるシロモノではなかったのだ。
 私説ではあるけれど、原子力が小型で安全に扱えるようなシロモノであれば、格段の進歩があったであろう。何十人ものキュリー夫人やソディが生まれたんじゃないだろうか。核分裂にしろ核融合にせよ、小型で安全な設備では御し得ないものだった。
 小型化コストダウン信頼性向上のような技術革新は原子力では、そもそもあり得なかったのであろう。つまりは袋小路のテクノロジーであったのだ。そういう穿った見かたをしても良い時期なのだろう。

 クリーンエネルギーとされる核融合は違うぞ!と異論が出るかもしれない。研究は着実に進んでいるとされる核融合放射能を拡散させないうえに、水素と重水さえあれば無尽蔵のエネルギーを生み出せる。
 実現の時期は? 研究者たちは20年から30年以内としている。
悪いがこの数字では何ごとも期待しないでくれというのに等しい。原理が知れているのにすでに半世紀以上、発電システムが実現できない。さらに1世代も待てというのは、何も出来ないというのに等しいと考える。
 太陽や水爆のような人工制御の枠組みから外れた系でしかエネルギーを生み出せないのであれば、それは工学的に不可能と断じてよいであろう。
 そろそろ、科学技術のアセスメントをして使えるもんとそうでないものを仕分けして本当にいいもの、可能性があるものを選びとる時代に入っているのではないだろうか?
科学技術の無制限な進歩などは単なる盲目的な信仰と変わるところはないのだと思う。だとするならば、費用や便益を照合してその研究にタガをかけるべきなのだろう。

科学論序説―新パラダイムへのアプローチ

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