日本は翻訳大国である。
そうであったし、これからもあり続けてほしいものだ。
優秀な研究者がその専門性と現代的な知識でもって、科学史の古典を一般市民に紹介するのは、科学の裾野を拡げる意味でも、温故知新で過去の叡智から新たな発見を拾い出す意味でも無視できない価値がある。
そもそも英語圏やフランス語、ドイツ語など先進数か国の言語圏以外で科学的な古典を営々と翻訳してきてきたのは日本くらいのものではないか?
天下の東京大学がもとはといえば蕃書調所(1856年開設やがて開成所になる)という江戸幕府による洋学の翻訳機関が前身であったことは象徴的である。つまりは、西洋の科学書や技術書を翻訳するのが本来的な姿だった。
そこでは「精錬学,器械学,物産学,数学,画学」が対象とされていたことも言い添える。
この稿を起こした動機は「なんでこんなニッチな科学古典まで訳しているのか!」というセンス・オブ・ワンダーがもとだ。その社会的始原は開国期の和魂洋才と富国強兵にまでに遡る。
そうわかっていても、アポロニウスの『円錐曲線論』やルジャンドルの『数の理論』など99.9%の理系の民が知らない書籍ですら、日本語で読めてしまうのは驚天動地というほか、ない。
読まれる可能性が少ない古典を紹介するというのは、まことにアッパレだ。
もう少し、時系列に科学的古典の翻訳をリストアップしてみよう。
ギリシア自然哲学がそもそもの近代科学の始点にある。いわゆるイオニア哲学者という一群の賢人たちのコトバがギリシア科学の始まりである。広い範囲ではフォアゾクラティカーVorsokratikerとも呼ばれる。ソクラテス以前の哲学者たちという意味だ。
これが文献学的に整備されたのがディールズ=クランツの決定版である。
『ソクラテス以前哲学者断片集』全六巻はすでに翻訳済みである。1990年台における京大の内山グループの業績である(あまり評判は高くないかもしれない)
これはこれで、大したものである。
遙かなるエーゲ海の二千年前の思想の断片を現代日本人に伝えるというのはアジア的には類を見ないであろう(中国で出版されているかもしれないが)
プラトンとアリストテレスの全集は数回ほど翻訳が刊行されているのは、この両巨峰はもはや日本文化の一部になったともいえる。プラトンは幾何学を一般市民のスキルとしておすすめしている。それにアリストテレスの動物学関係書は文庫になっている。
ユークリッドの幾何学原本だけでなく、アルキメデスの主要な著作も読めるというのも付言しておく。関西にはアルキメデス研究の世界的権威(斎藤憲氏)もいる。
ギリシア時代の古典を振り返るというのは極東の研究者にも十分な意義があると思う。
ちょっと時代を飛ばそう。ルネサンス以降の西洋近代だ。
ガリレオの著作は文庫で三種類も入手可能。それ以外に『贋金鑑識官』と『レ・メカニケ』が世界の名著版で紹介されている。
コペルニクスの抄訳もあるが、ケプラー『宇宙の調和』も手に入る。パスカルの真空研究も読める。パスカルは全集が何度か翻訳されている。昔、日本人研究者が留学してフランスのパスカル研究の権威にそう発言したところ、驚かれたというエピソードもある。
そして、極めつけはニュートンの主著『自然哲学の数学的諸原理』(もとはラテン語)が現代語で読めることであろう。いわゆる「プリンキピア」だ。困ったことにニュートンは微積分でこの本をまとめてない。幾何的な方法での説明図しかないのだ。なもので、最近、アメリカでチャンドラセカールが浩瀚な注釈本を残している。
少々、異分野だが熱力学の古典があることも申し添えておく。カルノーの本だ。『カルノー・熱機関の研究』である。若死にした科学史家、広重徹の翻訳である。ボルツマンも「物理学古典論文叢書 6 統計力学」にて重要な論文が翻訳済みだ。
応用数学であるがフーリエの『熱の解析的理論』も本屋で見かけたことがある。
19世紀後半からの古典になると、「物理科学の古典」シリーズが東海大学出版会から出ていた。
ヘルツの『力学原理』やマックス・プランクらの『熱輻射論』、ローレンツ変換でしか名の残っていないオランダの偉才ローレンツの『電子論』など、誇り高き古典が翻訳されていた。今では大学図書館の片隅でホコリをかぶっているだろう。しかし、これらの訳業も偉業であろう。
いやはや、部分的にサンプリングしたにすぎないが、これだけ古典をバカスカ訳しているのは呆れたり感心したりだ。先人たちの業績に最敬礼である。
【翻訳書リスト】
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パスカルの科学論文の文庫がある。
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マッハの力学史が文庫になっていた。
マッハ力学史〈上〉―古典力学の発展と批判 (ちくま学芸文庫)
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マッハ力学史〈下〉―古典力学の発展と批判 (ちくま学芸文庫)
- 作者: エルンストマッハ,Ernst Mach,岩野秀明
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