タバコのがん誘発は1950年台にはほぼ確実視されるようになっていた。しかし、それを「統計的」に証明するのは非常に困難だった。その上、タバコ業界の政治力はとてつもなく大きなものであった。
何かが病因であることを示すには、コッホの原則というものが19世紀に確立されていた。
1)ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
2)その微生物を分離できること
3)分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
4)そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
この強力な原則ですら反例はあるし、曖昧さがある。しかし、病因の判断のスタンダードにはなっている。
しかし、喫煙はどうしたら肺がんの要因となりうるかをコッホの原則で証明するのはどうほじくりかえしても出来ない相談だった。因果関係の説明にかなり近いコッホの原則を離れて、がん誘発の犯人を特定できないか?
因果関係より広い相関関係だけでは容疑者の有罪であるのを論証するには至らない。
そもそも、人命を尊重する医学はヒトという動物に原則3)を適用ができないのがネックなのだ。
疫学調査はそこから生まれた。
ブラッドフオード・ヒルというイギリス人統計学者が苦心の末に編み出したのが、次の疫学原理の箇条書きだ。原理というほどのものではなく、有力な情況証拠を積み重ねたすえの有罪を突きつけるロジックだ。
1)強い 喫煙者では、肺がんのリスクが五倍から一〇倍も上昇する。
2)一貫性がある まったく異なる状況下で、まったく異なる集団を対象におこなわれたドールとヒルの研究、ヴインダーとグラハムの研究から、同じ結果が導き出された。
3)特異性がある たばこは肺がんに、つまり、たばこの煙がはいる部位のがんに関連している。
4)時間に比例する ドールとヒルは喫煙年数が長ければ長いほどリスクが高まることを証明した。
5)「生物学的勾配」がある 喫煙量が多いほど、肺がんのリスクが高まる。
6)もつともらしい 発がん因子の吸入と肺の悪性化とのあいだの関連性に生物学的な矛盾がない。
7)整合性がある 疫学分析の結果と、マウスを用いたグラハムのタール塗り実験のような実験結果とが一致している。
8)実験により裏付けられている マウスを用いた実験などによって裏付けられている。
9)類似の状況において同様の現象が見られる 喫煙は肺がんおよび、口唇、咽喉頭、舌、食道のがんに関連していることが示されている。
恣意的な箇条書きにしか見えないが、やがて疫学研究は医療統計の柱になってゆく。ヒルは肺がんの原因となる喫煙を追い詰めるためにこの方法論を打ちたてた。
さて、その調査対象はどうなるのであろうか?
それがコホート調査だ。二種類ある。
バイアスに弱い後ろ向きコホート調査だけでなく、大きな労力と時間を必要とする前向きコホート調査も編み出した。
後ろ向きコホート調査はがんになった患者についてヒアリングする。肺がん患者に喫煙有無をただすのだ。前向きコーホート調査はあらかじめ定められた集団、例えば喫煙の悪影響など何も知らないケンブリッジ大の卒業生を集めて数十年に渡りその生死と習慣をトレースするのだ。
極めて粗雑な比喩でいえば、前向きコホートは「鳴かぬなら死ぬまでまとう普通の生活者」であり、後ろ向きコホートは「鳴かぬなら吐かせてしまえがん患者」というだろうか。
長い論争の後、タバコ業界は次第に追い詰められていゆく。1990年台には決着はほぼ見えていた。しかし、それまでに多くの命が喫煙習慣により奪い去られていたわけだ。伊佐山の『現代たばこ戦争』によれば20世紀の間に先進国だけで6000万人の命を奪ったし、それに対して知らぬ存ぜぬを通してきたのだ。
【参考書誌】
臨床医でもあるムカジーの名著は疫学の勉強にもなる。疫学の話しはムカジー本からの抜粋である。下巻にある。何といってもシッダルタという名前がスゴイ。仏陀とおなじ響きだし。
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タバコ業界の抵抗の終始をレポートした新書。それも、もう、昔話になった。今度の敵役は「砂糖業界」かもね。
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疫学の統計的側面を軽々と学ぶにはセンの本が手ごろだ。回りくどい表現が多いけど学ぶことが多い。
- 作者: スティーヴンセン,Stephen Senn,松浦俊輔
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