サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

人類が観察したる種の起源

 20世紀において進化論は科学的な定説として揺るぎない権威を持つに至った。幾つかの反論があったがどれもこれも末節の議論となった感がある。
 だが、進化の駆動仮説であるニッチをめぐる争いの結果としての適者生存=自然選択説はかなり大きな変更を受けたようだ。
 その最たる例は「木村中立説」だと言われている。
数理遺伝学の草莽期に分子進化の中立説を提唱した木村資生の主張は、当初は自然選択説への対立的学説として多くの反対論にさらされた。
 集団遺伝学での重要な(生存持続)指数である適応度=ある生物個体がその生涯で生んだ次世代の子のうち、繁殖年齢まで成長できた子の数を覚えておこう。
 木村中立説に従えば、遺伝子の分子レベルでの差異は適応度にほとんど何ら影響を及ぼさない。分子漂動は中立的だという。しかも進化的変異の大多数は中立的であるとする。
 これはダーウィニズムセントラルドグマに対するアンチテーゼと当初考えられたが、今日では多くの遺伝子レベルの変異事例で確認されている。つまりは複数の観測結果があるのだ。
 木村資生はこの業績の結果、1992年に栄誉あるダーウィンメダルを受賞したのだが、1994年三島市の自宅で転倒死し、ノーベル賞受賞まで生存持続できなかったのはあいにくなことだ。
 しかしここで、強調したいのは別のことだ。
 人類が種の起源を観測した事例が相も変わらず、工業暗化の事例「オオシモフリエダシャク」くらいしかないのことだ。自然選択説の形態変異の事例がそれだけ?  
それも暗化がなくなったりして種の分岐かどうか議論紛糾のようだ。それがインテリジェント・デザイン論者らに論われている。
 そういえば都会の鳩も工業暗化の事例なのだろうが種の分岐とは見なされていない。
 それはともかく、始祖鳥問題はほぼ解決されつつある。例えば、中間化石が続々と発掘されてきているし、恐竜の生態の多様性(恒温性や羽毛の発達、子育てなど)が明らかになったからだ。
 でも、この数百年に新種の発見は山ほどあるが、種の起源/分岐は圧倒的に少数もしくは無きに等しいのは、なぜなのだろうか?
 個体の表現型レベルでの「自然選択説」はひょっとしたら中立説よりも観察結果面では怪しいのではあるまいか。


 最近の分子進化論の動向はこの本を参考にした。この本でも看取されるが、日本人の分子遺伝学者は木村資生への尊敬の念が篤いなあ。