サイエンスとサピエンス

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強制的な存在切断は「歴史」を刻む

 強制的に存在を切断された有機体は「歴史」を刻む。その意味するところを説明してみたい。

 ポンペイの町並みや家屋、それに市民の亡骸は1000年の時を超えて、当時の有様を伝えてくれる。火砕流が彼らの生活を断ち切り、写真のように生痕遺物を残してくれたからであろう。
 現代人が古代ポンペイのパンの焼き方が遺物として確認できるのだ。
 遺跡の保存状態がよいものは、このような災害による「保存」が当時の姿をまざまざと残されていることが多い。
 なので、ローマは古代ローマ帝国の遺跡はそれほど多くはない。連綿と続いた生活者たちがその継承物をどんどん再利用してしまうからだ。
 これは、東京に江戸時代の町家が一軒もないのと同様であろう。古い時代の家屋(民家)は地方に取り残されたように散在するだけなのだ。
 邪馬台国の痕跡が識別し難いのはその後継者が遺跡を乗っ取り、新陳代謝していったからだろう。外部の支配者が強襲して破壊していれば、むしろその場所が特定しやすかったかもしれない。
緩やかな変化ほど見分けづらいものはない。

 歴史的な変化の認識というのは、社会的有機体の断絶による「記憶」が伝承される傾向になる。幕末と維新期の文献(回想や日記、文学、記録等)がそれ以前の天下泰平の時期より多いのは、自分だけの主観的な印象ではないだろう。
 進化論の見方でいうとグールド=エルドリッジの断続平衡説 Punctuated equilibriumのようなものだ。地質年代的な断絶が様々な種の痕跡をより良く保存するので、多様な種が分岐発生したように見えるのだろう。

 断絶の時代は急激な変化の時代でもある。変化が急峻であればあるほど、記憶が深く刻まれる。それは精神でも物質でも同様だ。

【DVD 参考文献】

ポンペイ(字幕版)

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進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

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