あまり人気のない問い。それはAIが人間に理解可能か、あるいは人間のように考えることができるのか、という問いだ。もちろんチューリングテストなる一つの合格基準がある。
だが、サールの中国人の部屋のような問いかけにはチューリングテストは十分とはいえないと感じる。
ここで自分が信じる仮説は「AIは決して人間に理解可能とはならない」あるいは「人間と同じような意識を持つことはない」ということだ。
いかなる専門家でもない自分が拠って立つのは神経生理学や一部のハードSF、科学哲学などだ。
AIの典型技術として深層学習をとりあげよう。これは神経網、大脳の神経網を模倣したものだ。今では1000階層でノードが数万以上という大規模なネットワークが出現している。量的な規模が人の大脳にだんだん近づいている。
AI研究者たちはAIはもはや大脳の模倣ではない、別物だと主張している。しかし物理的な模倣であることはその始点においては確かだった。それに物理的な模倣orモデルでないなら、人間の意識の模倣もできないのではないか?
この神経網の模倣は電気的な模倣でしかない。シグモイド関数のような深層学習のノードの反応・無反応を決める方式は、神経細胞のホジキン=ハックスレイ方程式の単純化でしかない。別にそれはかまわない。電気的な反応が意識のふるまいを決めているならば、だ。
しかるに神経生理学が明らかにしているように、電気化学的&生化学的な振る舞いが神経細胞に具備されている。
深層学習は、知覚能力の模倣にすぐれている。画像認識や音声認識などだ。外界のシグナルを分類し予測することができる。それはInputがあってのことである。
Input-procee-output , この図式から深層学習は永遠に抜け出せないというのが、最初の主張だ。なぜなら、神経網の電気的な信号処理の模倣だからであり、信号処理の延長をAI技術は扱っているからだ。
欠如しているのは化学だ。生化学や電気化学だ。イオンチャンネルや能動輸送だ。神経細胞の生理や化学反応のようなウェットなモデルはコンピュータの苦手とするところだ。細胞自体の物質的な維持に加えてイオン濃度やエネルギー供給が神経網を支えている。
こうした物質的基盤を維持するために神経網は活動している。己の活動を維持するために外界認識などを遂行しているのだ。つまり、それが欲望の根源なのだろいうというのが第二の主張だ。
観念論哲学者シェリングを唐突に援用するなれば、人間存在の底には欲望がある。何ものかについて考えるのもその欲望に駆られてであろう。欲望は化学的であるといえないか?
『デカルトの誤り』におけるダマシオの問いも同じことではないだろうか?
下記の本を議論の下敷きにしている。背景は数学的関数主義だ。生理学的な模倣から程遠いAI理解こそが、その「意識」のモデル化という目標から乖離を明確にしてくれる。それにしても深層学習はオーバーフィッティングを免れているですねえ。
自由についてのシェリングの思索をギリギリまで読み解いてゆくハイデガーの手腕には一驚するが、それが精神世界の在り方におおきなヒントを与えている。そう思えてならない。