空中窒素固定法による化学肥料はハーバー=ボッシュ法と呼ばれ、第一次世界大戦中のドイツで工業化に成功した。ユダヤ系化学者ハーバーと技術者ボッシュは大気に含まれる大量の窒素から有機物質(戦争中は爆薬の原料)を製造する技術を確立したのだ。これにより戦争は長引いた。火薬原料を輸入できないドイツは降伏するという連合国の予想は外れた。
この「大気の錬金術」は農地の生産力を飛躍的に向上させた。それまでは、グアノのような有機堆積物を輸入しなければ土地の生産力はすぐに疲弊してしまった。
言うなれば、我らの身体の一部は空中窒素固定法の由来のものだということである。
歴史に詳しい方なら、江戸時代の日本はかろうじて堆肥と下級の魚で地力をかつかつで維持していたのを記憶しておられるであろう。
今日の人口爆発の遠因はハーバー=ボッシュ法にあるといえる。この発明者のユダヤ人フリッツ・ハーバーは愛国的ドイツ人でありながら、ナチに追放される悲哀をなめている。勝利のために毒ガス開発にも従事したが、それがもとで妻が自殺している。
その経緯は宮田親平の本を読まれたい。
フリッツ・ハーバーは来日している。星新一の父親、星一(はじめ)を訪れるのが主目的だ。『人民は弱し官吏は強し』にその事情が記されている。
星は後藤新平の後押しでドイツの学術後援会に援助資金提供していた。「星基金」という名だ。ハーバーが委員長に就任した。基金は若い化学者と原子物理学者に奨学金を出した。
小塩節によると、
一九二六年、ベルリンに日本文化研究所が設立された。フリッツ・ハーバーが一九二九年
までの初代所長に選ばれ、盛大に開所式が行なわれた。日本の星一と友人たちは、またして
も高額の寄付金を送った
さらに、こんな記載もある。
ハーバー博士は星の会社を訪れ、たずさえてきた大統領からの親書を手渡した。内容はこうだった。ドイツが戦後の最も苦しい時期に、民族、国境、利害を越えて、友情あふれる援助の手をさしのべてくれた。寄付金は化学および原子物理学の研究に使わせていただくが、ドイツ国民はこぞって心からの感謝をささげるものである。
そして、ハーバーは星にドイツの化学染料のパテントの使用権を無償提供を申し出するが、星はそんな権利は不要であると言い放って周囲を驚かしている。
再び、小塩節の『ドイツと日本』から、ハーバーの日本評を引用しておく。
フリッツ・ハーバーは、ドイツの友人への手紙にこう書いている。「日本人は模倣と物真似の民族だという人がいる。私にはとうていそうは思えない。日本は近々、強大な大工業国になるだろう」
最近、読んだ『大気の錬金術』のハーバー伝においても星基金は出てこない。小塩によれば、その出来事は歴史のなかに埋もれたままだという。
ところで、モルヒネに関わる官僚とのいざこざで星一の事業は追い詰められていゆくが、他方で彼の親分格の後藤新平は「植民地に於けるアヘン漸禁政策の基礎を打ち固めた」という評価もあることは付言しておこう。
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