先日のお題「やはり気に入らないデジタル化コネクテッド社会への遷移」つながりだけれど、デジタル化は目に見えて便利で安くて処理が早くなる。それにつられて技術開発結果は即座に市場に投入されるのが当たり前、それがアメリカモデルだった。
これが医薬品やバイオテクノロジーや大型産業施設だともう少し環境アセスメントとか、有識者会議なんかが立ちはだかり、ちょっと待ったをかける仕組みがある。
目に見えて危害があるからだ。しかるにデジタル化は電磁場とか物理系の安全性さえ保障されてしまえば、新規技術はそくざに市場に投入される。
よく批判されるのがソフトウェアの製品としての不完全性。バグなどによる信頼性、サービス停止とかセキュリティ脆弱性とかであるがこれは普通の製造物責任の範囲でソフトウェア更新により保証される仕組みがあるし、可視的なものだから製品が売れなくなるなどの市場フィードバックがかかりやすい。
自分が不安視しているのは、「人格形成」や「公共性維持」や「知覚機能」などというような認知能力や社会性に関わる人の役割形成といった「眼に見えず」「短期間に障害発生の有無不明」なインパクトのことだ。
サン・テグジュペリは「本当に大切なことは目に見えないのです」と言っていなかったか?
キーボードに馴染んだ人は書字能力が半端なく低下する。小学生以下の漢字書き取りになっているのだが、それはまだしも分かりやすい方だ。
SNSのチャットでしかコミュニケーションとれない、あるいはネットワークゲームでしか人と会話できない人たちの存在はちょっと怖いものがある。
コミュ障は流行りことばで見過ごしてはならないのだ。
もっと不確実性要因は生成系AIの登場と市場への乱入だ。
EUでは待ったをかけている。それに対して、アメリカや日本はイノベーション阻害したくはないという市場重視主義で反対の政策方針をとることにしているようだ。
企業育成を優先させるアメリカモデルに右に倣えの日本はいつもの通りだ。
現時点でどっちの方針がいいとは即断できないという立場のは多くの人のものだろう。
しかし、そのインパクトは社会構造と個人の能力に及ぶことは間違いなさそうだ。
生成AIは異色に見えるかもしれないが、これまでのデジカル化の潮流と外れるものではないことは理解しておいてほしい。
すなわち、コストとスピードの観点で企業はそれを評価する。よって、人の認知機能を一部を代行させ、やがてマンパワーを次第に低減させてゆき、結果として社会の中間層のポジションにネガティブな影響を与えるのはこれまで通りの流れなのだ。
ダニエル・コーエンがグローバル化とアメリカ企業の成長の結果について断罪している。