サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

偉大な数学者に丸禿げはいない

 何ゆえか、数学者には禿げを見かけることは少ない。偉大な数学者にはいない。

それを偉大な数学者の画像で確認しよう。

 やはり信頼できる肖像画や写真が残る近代以降に限られる。

天才の世紀ともいわれた17世紀、デカルトパスカルから始めよう。

     

デカルト肖像画はどうも扱いが難しい。なぜなら、この時代の特徴としてシラミ対策のかつら(ズラ)を着用しているようなのである。

やや後輩にあたるパスカルはどうか。これはどうやら地毛であり、禿げてはいない。

もっとも40台で若死にしているので禿げる直前だったという反論はありうるだろう。

     

ライプニッツの肖像はズラなので割愛しよう。かの偉大なニュートンも同様だ。

オイラーはこういう禿げ方だった。

      

 

生え際後退タイプである。これから出てくる数学者はこのパターンが多い。前頭葉の張り出しによって、前頭部の髪の毛は栄養補給うけられなくなるからであろう。

 かのガウスの臨終のときの場面である。やはりオイラーと似ている後退際ラインだ。

     

ラプラスはかつらっぽい感じもあるが、地毛であると想定して下図に掲げる。

     

同じフランス人のポアンカレ。坊ちゃん刈り的であるが、生え際はキープしている。

50代にて亡くなってしまったのが、禿げ方研究者を泣かせている。

     

 

 問題提起するのが、ほぼ同世代のヒルベルトである。

    

世の常識としては禿げと呼ばれる種族に属していることになる。よって、数学者に禿げはいない、偉大な数学者においておや、に反する偉大なる例外である。

 彼がここまで禿げた理由としては族長説がある。ヒルベルト学派あるいはゲッティンゲン学派なる、きわめて重要な数学者の学派を生みだし、統率していた。

群れのボスは男性ホルモンを大量に分泌する。よって、禿げる必要があったとする。

 残念ながら、この族長は直系子孫を残すこには失敗している。

 数学者はあまり種族繁殖活動には執心しない。その相関として禿げることもないというのは、禿げ研究者では定説に近いものがある。

 また、アダマールヒルベルト型の禿げであったようだ。

      

この人が例外となった理由は2つある。歴史的事件でもあったが、素数定理を証明してしまったこと。90歳以上の高齢となったことである。

 20世紀前半に人物をあと二人取り上げる。

 フォン・ノイマンである。見事なデコピンちゃんである。この人も働き盛りで亡くなっている。

      

そして、日本代表は高木貞治だ。

     

 この人も高齢まで永らえ、代数的数論の学者たちを育てた。しかし、禿げる能力には欠けていたと断言できるのである。

 

【参考文献】

 ヒルベルトについてかなり詳細な伝記がある。彼の周辺の人物群をも紹介している。

 

精神疾患、とくにうつ病に関する企投的仮説

 精神疾患のような原因が特定困難な病は社会の好ましからざる変化や要因が影響している可能性が高い。

 とくに世界的に増加傾向にあるうつ病。この原因はいまだに特定できていない。

そもそも、一つの病であるとすることもなかなかに難しいようだ。

 腫瘍マーカーがガンの診断に使われているが、精神疾患にはこの手のバイオマーカーはほとんど存在しない。特定の物質が原因となるようなケースはアル中などの薬物中毒くらいか? うつ病の生物学的根拠を特定することは成功していないし、今後ともその見込みは薄いだろう。いまのところ、疫学調査がその対策の手段だろう。

 うつ病精神科医の教科書に記載されてから100年以上たつ。確かに向精神薬の登場で30年ほどまえに化学療法が有望視された時期はあった。だが、寛解率はこの50年ほとんど上昇していないと専門家は指摘している。

 

 なので、根拠薄弱ながら、現代社会における精神の危機を考慮して、かなり跳躍した仮説を考えてみたい。この「精神の危機」は思想家や賢者や学者がここ100年くらい持続的に警告を発し続けている。なので、今この時代や時期、うつ病と因果関係があるわけではない。それにしても、近代人の憂鬱は、かつてはいくぶんなりとも紛させる手段があった。密なF2Fコミュニケーションなどがいい例だろう。

 

 ここからが、この企投的論議の始まりだ。
 現代人のこころは微弱で感知しえない社会的な阻害因子にさらされている、とみなしていいのではないか?
 社会の複雑さ、情報とノイズへの暴露、機械化と自動化、コミュニティ劣化が進行する、そうした微弱な阻害因子に絶え間なく、さらされているのではないか?
 客観性をもって検証しようもない臆断だというのも事実だが、ノーマルの科学的検証は実現できず、役に立たないのも事実だ。
 ここで企投的な仮説というやつを提起しておく。

うつ病情報理論的な疾患の一種でノイズフィルターの機能不全による脳への過負荷により生じる。

 これは、つまり、外部からの情報は自己の能動作用につながるものとそうでない
ものに大別されるが、その切断機能の不全により「実存的眩暈」を起こすという説だ。

自我の責めという罪悪感におちこむのだ。

 うーん、だから、どうよ?! と言われそうだ。

 うつ病はなによりも情報処理的な病だといいたいのだ(思弁的だけれども)

 うつ状態MaxwellのDemonの眩暈と似ている。分子熱力学におけるMaxwellのDemonはご存じのように、二つの部屋の分子運動の監視者である。彼はシャッターを開け閉めするだけで、熱力学第2法則を破ることができる。それはしかしDemon自身の熱状態を劣化させる。自分はこの「Demonの状態=うつ病」と言いたいのだ。

 敢えて極論するならば、精神疾患の病因論は、脳内の生化学的異常や遺伝子欠損、あるいは身体的ストレス、フロイト理論などがある。でも、うつ病はどれにもあてはまりそうにない、のだ。だとすれば、別種の病因カテゴリとして、情報理論を持ち込み、

 情報処理の失敗による無限自己ループみたいなものもあってもいいんじゃないかということだ。

 

【参考文献】

20世紀の精神医学は特定の疾患については無力だったという反省から、下記のチャレンジを始めた。計算論といっているのはニューラルネットワークパラダイムだと思えばいい。

 

 

 

 

ハイデッガーの『技術とは何か』を読む。あるいは細胞内の海

 根源語の魔術師ハイデッガー「技術とは何か」を読んだ覚書が以下となります。
 技術ではなく、技術の本質をつかむこと。両者は異なると哲学者は初めに断りを入れる。
まずは、古代ギリシアの4原因説のおさらい。
 質量因 どのような素材からつくられているか
 形相因 どのような形態、形状であるか
 目的因 その製作物はなんのために必要であるか、形式と素材を規定
 作用因 製作物を現実化する原因、職人や技術者や工場生産者

 4原因のどれもが現代の技術では単一ではなく相互に入り組み跨っている。
とりわけ注目したいのが目的因の問題だ。その境界が果てしなく広がっている
発電所の電力の目的は需要者へのエネルギー供給ともいえるが、しかし、それはそれぞれの使途の目的までは言い切れない。
 形式と素材をカバーしきれていないのではないか?

 原因をギリシア人はaitionアイティオンと呼んだ。他の者を引き起こす責めを追う者の意である。
「お供えの器具は皿らしいものの姿かたち(エイドス)が同時に責めを負うことで
引き起こされる」
 エイドスは形相因とも訳される。
 引き起こした責めを負う4つあり方が4原因なのだ。
それは「何かを現れることをもたらし、それを持続させる」ことでもある。
プラトンによれば「現前的でないものから、現前的にありてあり続けるものへと絶えず移り行き、なりゆくものにとっての始動のきっかけとなるあらゆるもの、それが制作、ポイエーシス、つまり、こちらへと前にもたらし生み出すことだ」

 技術の本質とは、古代的観点では、現前させるために隠れたものを「顕現」させることギリシア語のアレーテイアの一種だ。ギリシア語の技術テクネーはポイエーシスに属す。しかもテクネーはエピステーメーと連関していた。どちらも「認識」を表す。
 テクネーは真理をあばく、顕現させること。原義は「こちらへ、前にもたらす」こと。
 技術が本質を発揮しているドメインはアレーテイアが作動するドメインだ。
だが、ギリシア人のテクネーがそのまま現代の技術の本質となるわけではない。
そこに近代以降の精密な自然科学が関与する。
彼の用語は「自然を挑発し駆り立てること」
「このことが生じるのは、自然のうちのエネルギーが開発され、開発されたものが変形され、それが貯蔵され、貯蔵物が分配され、分配物があらためて変換されることによる」
 電力システムをモデルに述べられたハイデッガーの視線は、現代技術の多くの生産物に共通な「サプライチェーン」の読み方でもある。
 多目的多用途多段階とトランスフォームとシャッフルがここでのプロセスである。
 この開発、変形、貯蔵、分配といった手順は反復的である。
 集積と分配と包装と変形(名づけ)により、最終消費者まで届く。けれども消費される地点では挑発の起点は不可視である。

 それに今では廃棄の手順が待ち受ける。処理場に追い立てられ、さらなる混合と変形と分配と産廃化の手順まで進む。こちらも廃棄の終端は地平の彼方である。

 各人はその手順の一部に関与するだけだ。各人の持ち寄るテクネーはより細目にわたり、包括的ではない。「人間を取り集めて、おのずと顕現するものを徴用物質として徴用して立てる、そうした挑発の要求を「総駆り立て体制」」と呼ぶ。いわゆる集立(ゲシュテル)である。
 自然から利用可能な「伏蔵物」を挑発して、人びとを総動員して駆り立てる。かくて技術的な活動は稠密に現代社会のなかに織り込まれている。貨幣商品情報は集立と不可分である。
 現代社会を近代社会から差別化しているのは至るところに浸透している集立である。GPSWi-Fiによって接続されたシングルな種族に従属しているのが現代人だろう。
 たとえ、独りであっても現代人は駆り立てられ、取り立てられる。今や荒野にあっても都会におけると同じように現代人は集立に参与している。

 しかし、ハイデッガーは何によってかくも大規模に人びとが駆り立てられているかかは論じなかった。そこを問い詰めてゆくのは我らの課題だろう。
 ひとつのヒントとして生物現象がある(そういえば、ハイデッガー自身が非常に生物学的な形而上学者だった。彼の存在分析はユクスキュルの影響がある。)

 非常に類似している仕組みが真核生物の細胞内にある。
 人体の細胞一つを考えよう。脳細胞でも肝細胞でも生殖細胞でもなんでもいい。
 核から出た遺伝子情報はRNA分子によりタンパク質合成工場に届けられる。
分子機械はその指令通りに幾種類ものタンパク質を生産する。タンパク質の合成は一筋縄ではいかない。アミノ酸をつなぎ合わせるだけでは目標となるタンパク質にはならない。4次構造まであるのだ。スーパーコンピュータを用いて科学者がシミュレーションするくらいなのだ。
 それを滞りなく、正確に生産するために多数の酵素などが参画する。
細胞内の、しかも、ブラウン運動のさなかの分子の行き来がどれほど煩雑で渋滞しているか想像せよ!
 さて、分子機械が現代人に対置できるというのが、ここでの提案だ。分子機械は目前の状況をミクロに解決(反応)するだけだ。本来の大目標である人体の維持などは分子機械のあずかり知らぬことだ。
 それでも分子機械どもは集立している。総動員されて無数の衝突と叫喚のさなかで自分の使命を果たす。
細胞内の分子機械どもは「総駆り立て体制」下にある。しかも個々の分子機械は自分の果たした反応や運動が何につながるかについては盲目だ。
 だが総体として、共通の目標、いわく生体の維持に向けられている。生きることが駆り立ての行き着く機能であり、テロスとしてのホメオスタシスなる状態なのだ。
 細胞の目的は「生きる」という定義しがたい目的としか表現できないのだが。
 現代社会の運動というのが経済活動なのか、ヒトの生死と移動なのか、それともそれ以外なのか、いわく言い難い。
しかし、総駆り立て運動のいくぶんかはその維持と拡張に捧げられているのは間違いあるまい。
 いずれにせよ、ハイデッガー講演の結論同様にこの問いは結論となるような答えは持ちえないだろう。

人類は危機に瀕すれば瀕するほど、救いへの道はいっそう輝き始める」と哲学者は言い残した。ひたすら問うことは思索の敬虔さそのもであるとも言い添えて。

 

【参考文献】

 下記の二冊の本に依拠した。鋭く含蓄のある表現なので翻訳により見える面が異なる。戦後のこの講演でハイデッガーがふたたび、時代の予言者に返り咲いたという。

 

 

 

ユク・ホイの本書は見たところ、ハイデッガーの血脈を継承して、問うことと思索をupdateしているようだ。詳細は読後にまとめてみる。

 

 

「無と空」についての寄せ書き

 存在論について早くから緻密な思考をめぐらしていた古代インド人は無をカテゴリ論の一部として扱う。それを行ったのは後代のヴァイシェーシカ学派だという。無を非存在と同義として、この学派は無を4種にわけた。

 未生無、乙滅無、畢竟無、交互無

 未生無は心のなかでの観念としての無、乙滅無は滅失した後の非存在、畢竟無はある場所に過去現在未来にわたっての存在がないことだ。交互無はAとBという事物が別々あるならば、AにあってはBは不在とする。事物の差異はこの交互無から生まれる!

 空と無は何が違うのだろう?

 空は中がうつろである。サンスクリットのsunyaは膨れ上がったものを指していた。膨れたものは中がうつろである。記号「0」もそれを形象化している。

 無はasatとして空とは区別されている。有の反対語であろう。空ですらないことだ。

論じる対象すらないことが無なのだ。それに対して「空」は至るところにあり、すべてに含まれ、すべてを含んでいるのかもしれない。

 ところで、因明と呼ばれるインド論理学では否定としての「無」を扱うだろうか?

ja.wikipedia.org

 

閑話休題

 数学とのアナロジーを考える。空集合は確かに「空」である。集合{ } の中身はないからだ。その要素の数は「0」だ。集合とは共通要素をもつ、あるいは概念の当てはまる対象を区分けすることだろう。

 あきらかに無とは違う。数学ですら無は扱えないとみるべきなのだろうか?

 「ゼロ」の起源から考えよう。

 「零の発見」という吉田洋一の名著があったが、ゼロはインド人たちの発見である。インド思想での「空」との類縁性は疑えない。発想の根元は同じだろう。存在論の概念が数学に持ち込まれるというのがユニークだ。同じくゼロ記号を持っていたマヤ文明ではどんな理念からゼロが持ち込まれたのだろう?インドほど文献が残っていないためそれを再現するのは不可能なのだろう。

サンスクリット語のSunya=空は中東(アラビア)経由で西洋に入ってゆく。

 中村元は指摘している。

「0」の記号は、もとはサンスクリットのゼロをあらわす記号に由来するもので、非常によく似ております。

 吉田洋一の本にその変遷を示した図がある。   

   

 

 開集合はその点で興味深い。幾何的視点での開集合には境界がない。無境界だ。

直接扱えない対象、近傍から接近することはできても、そこにはたどり着けない。

 それが数学における「無」の扱いなのではないかと思うのだ。無限小や無限も同じ扱いのようだ。

 0は操作可能だが、無は操作の埒外にあるといえば伝わるかなあ。この御託は学者先生がどうその差異を論じているか見つけていないので、あくまで私見になる。

 

 それゆえに、下のwikiの無の記述と自分の解釈は異なっているわけだ。数学では零は空に相当し、無は直接扱っていないのだと思う。ある種の極限概念として彼方にある。

 無のかわりにその逆の無限大∞を扱うのだが、これは無ではないが無の双対だ、と思う。リーマン球面からZero点が無限遠と対応づけることから、勝手に双対だといっているだけなのだが、自分は妙に腑に落ちる。

ja.wikipedia.org

 

 数学の兄弟分のコンピュータ科学では0とNULL(ヌル:ドイツ語のゼロ)を区別しているが、前者は「空」であり、後者は「無」に対比できるといえる。計算機での取り扱い範囲外が「無」だろう。NULLは「非」とも訳されるが、観念論の国のドイツからの移入であるのが絶妙ではないか。

 

 自然界を対象にする自然科学、とくに物理学も数学に掣肘されているようだ。

 熱力学第三法則 絶対零度には到達できない。ゼロ点振動、カシミール力などは空→ゼロの観念上の扱いになるだろう。対創生も「空」からの素粒子生成を連想させる事象だ。

 科学史での「空」の認識での一大事件は「真空」の発見だった。英語ではvacuum,voidになる。これはトリチェリの実験やマクデブルクの半球といった真空の存在=大気圧の証明につかわれた実験器具を思い浮かべれば「空」という訳語は正しい。 

 当時支配的なスコラ的自然学はアリストテレスの系統をひくものだったが、真空への恐怖 horror vacuiにおびえていた。どうやら、原子論や唯物論への根っからの反感があったからではないか。

 完全なる空を認めることはキリスト教神学への反逆であり、無神論につながるとみていたからではないか?

 空があることが無神論になるという思考回路はなかなかに深いのだが、どうだろう。

他方、無はキリスト教神学には無縁だった。エックハルトやタイラーは別だろうが。

 真空はいくたの保守的かつ神学的な反対を押し切って、西洋世界で確立された。ニュートン力学誕生前夜の出来事だった。

 空の代表的等価物である真空が宇宙空間を占有することはニュートンがその天体への力学応用で実証されてゆく。

 自然科学では空についての長い歴史があったわけだ。

 よって、自然科学は空を対象にすることは可能だが、無は除外しているとひとまず断定しておく。無とは本来、非存在だからだ。自然科学はなんらかのレベルか意味で存在していないものをいくら踏ん張っても研究対象にできないのだから。

 

 つまるところ、無を考察できるのは、形而上学か宗教かのいずれかであろう。

 無と空は異なる。空は自然科学の諸学諸賢が考究してきた。それに引き換え、無は無視されているようだ。でも、自分にとっては無は考察するのに値する対象だと思う。

 なんといっても、無は言語表現を超え、あるかないかについて人智ではとらえどころがなく、それでも超越論的な光芒を放って堂々巡りとなりうる思考をおびき寄せるものがある。

 

 

 

 タイトルは「無の物理学」とあるが、空の物理学を論じているのだ。ただ、原題はvoidなので、空の物理学なのだが。

 

 

 インド人は空想力に長けた民族と富永仲基は指摘したが、果てしなくロジカルであることも忘れてはならない!

 

脳百態のうちの十 -脳狂言-

 痴性体の知能の様態の奇態な様々を類推し推測する。

 

1.脳のなかに脳があって、その中に脳があって、それが繰り返す(ロイス型)

2.空洞の脳室。そこでの音響共鳴が外部刺激に対しての応答を決める(空洞型)

3.多数の寄生体の寄り合いが神経系に組み込まれていて、脳内チェンバーで合議制を行う(寄生民主型)

4.過去の記憶を先祖代々貯蔵してある記憶装置と検索機能だけでできた脳。新しい事態にも検索結果の上位で応答(Google型)

5.「自分を進化と知性の至高状態」と規定するもpunk寸前の貧弱な処理能力しかないプアな自己陶酔状況にある微小脳

6.脳が身体から分離した培養層にあり小脳を持つ多数の身体とワイヤレスで結合している(ドウエル型)

7.進化の極致の寸どまりで、知能=生殖機能となり果ててしまった。すべて思考活動は生殖活動となる器官をもつ種族(フロイト型)

8.核分裂物質からエネルギーをとるミトコンドリアを持つ神経細胞からなる脳。考えすぎると核爆発を誘発する(分裂型)

9.回転型の機構の脳。ハードディスクのように脳が回転している。空腹になると頭の回転が遅くなる(回転型)

10.気からなるプラズマ脳。無形状、無境界、無我にして大気に溶け込んでいる(気体ソラリス‘型)

日本人生物学者たちの考えた人類の遺伝的未来

ここでの日本人生物学者たちとは木村資生と渡辺格である。

 木村資生から始めよう。彼の分子進化の中立説はノーベル賞級の発想と発見であった。その業績の先進性は高く評価されるべきだろう。

もう一人、分子生物学渡辺格である。ウイルスの遺伝特性を解明したその業績も先進的だった。

 両者とも後期には人類の将来に思いをめぐらした。

木村資生は優生学イデオロギーを抱いていた。

マラーの生殖質選抜の方法は、人類の積極的優生の手段として、一般的知能とか健康、社会的協調性といった形質の遺伝的改善を行なう上で、科学的にはおそらくもっとも安全・確実で、長期的にも有効な方法といえるかもしれない。

 「マラーの生殖質選抜」とは、優秀な資質の人びとを選別して、その子孫の増加を人為的に補強するといことだ。

もちろん、その危険性は著者も承知しているので、こう付け加えている。

マラーの方法が社会的に是認された場合の話であることをつけ加えておきたい。

でも、この方法は科学の客観性を侵害しているのに、気が付いていないようだ。

 なにが優秀でなにが劣悪であるか、それは文化的なバイアスでしかない。さらにいえばDNAが生物の特徴を決定するすべてではないことがエピジェネテックスその他から明らかになっている。

 文化的バイアスの例はナチの優等人種としてのアーリア人であろう。

 木村資生は旧世代型の科学の無制限な発展を信じた頃の人であったことは、「人類の宇宙的発展と進化」でスペースコロニやオニールを論じていることでも知れる。

 残念なことに科学技術は生物学においてすらも停滞の兆候を示している。たとえば、ガンの制圧は100年以上の集中的な研究によっても成就できていないし、見込もなさそうだ。

 

さて、渡辺格は「人間の終焉」を説いた。1970年代だ。こちらの方は同じ人類の将来を論じているが、結論は提示していない。

 彼も人類の遺伝子プールの劣化を考えた。弱者を抱擁する社会では欠陥遺伝子が増える。遺伝的弱者も子孫を残せるからだ。人類はそこで決断を迫られる。弱者を抱えていく選択か、そうでない選択か?

 前者を高貴な選択と呼んだ渡辺格は自分の選択は示さなかったようだ。

 それから50年。

日本は遺伝的弱者を抱えた社会になりつつあるようだ。しかしながら、何をもってして遺伝的弱者と判断するかは全然あきらかではない。

 第一、身障者はそうだといえる根拠は何もない。

 さらに様々な疾患が増えすぎた。

 たとえば、自閉スペクトラムやらなにやらDSM-5(精神障害の診断・統計マニュアル)には数知れない精神障害があふれている。

 どれが遺伝的欠陥なのか?

 つまり、木村も渡辺も生物の本質を遺伝子に重みを寄せ過ぎて見通しを誤ったというのが、21世紀初頭での評価になるだろう。

 優生学をDNA優位主義の「分子生物学」でラッピングして科学的装いを凝らしただけなのだ。その「分子生物学」も遺伝子決定論からはみ出したし、人類の社会に起きている現象も単純ではなかったということだ。

 日本社会は今のところ、渡辺格のいうところの「高貴な選択」の方に向かってはいる。福祉施設はいたるところにあり、バリアフリーは遅ればせながら進んではいる。視覚障碍者が公共交通機関を利用しやすい国ではナンバーワンなのではないだろうか?

 それも長期的に制度疲労を起こす可能性はあるものの、にしても、いろいろな弱者とともに生きる社会の実践は高貴な選択ではあろう。

 

 

UFOの運動技術に対するSFプロトタイピング

 最近になってアメリカで話題となっているUS空軍のUFOドキュメントに刺激されて、この未知の物体の運動性能を可能にする未知のテクノロジーについて、流行りのSFプロトタイピングを試みよう。

 UFOが光学的な錯覚ではなく、実体があるというのが前提である。それが未知のテクノロジーによる飛翔体であるという線にそった空想的な推測を行うわけです。

 まず、我ら人類のテクノロジーを反省しておきます。

 それをマックスウェル=ボルツマン系の技術基盤だと定義します。つまり、電磁気学

すなわち電子と光子の場の理論が土台となり、熱とエントロピーに関するエルゴード仮説の近傍に位置する分子レベルでの熱統計学がそれを補完しているのです。

 物質の動的なコントロールはマックスウェル=ボルツマン系の科学技術基盤の上に構築されています。ジェットエンジン内燃機関の理論も化学燃焼反応という原始的なプロセスをマックスウェル=ボルツマン風に解析し、そのモデルで制御していると見なします。

 それに対して、UFOの動作はまったく別のテクノロジー基盤の存在を仮定せざるを得ません。それを南部=ブリゴジン系の技術基盤と銘打っておきます。

 まず、慣性質量の増減をテンソル制御できている。慣性モーメントの要素も自在に増減できていると想像します。異常な加速や減速、方向転換も慣性質量をtensorレベルで操作できれば、雑作もないことでしょう!

 そのためにヒッグス機構を南部の超電導場理論により制御しているはずです。電磁場での制御では不可能な技術です。もっと根源的な場のモノイド相関を操れる能力が必要になるでしょう。

 きっと、ブリゴジン=南部陽一郎系の科学技術基盤が必要なのでしょう。

 慣性質量を自在にコントロールできるだけでは、大気中や水中の速やかなる移動は説明できません。流体摩擦による抵抗や熱の問題が残っています。

 人類は流線形なる形態でもって、抵抗や熱の発生を流体力学的に回避しようとしてきました。しかしながら、そのような粗笨なテクノロジーではUFOの異次元的な運動性は説明できません。ボルツマン的な熱力学思考では限界あるのです。

 エントロピーを直接的に操作するための指導原理はブリゴジンの非平衡熱力学の発想を飛躍させるしかありません。確率場の実体化によりプロバビリティのエンタングルメントによるエントロピー解消手法を、つまり熱や摩擦を可逆的に処理することができるはずです。無駄な熱損失や抵抗発生を時空に畳み込むことで転移させるしかありません。ノーフリーランチ原理というわけです。こうなると確率場は数学的道具ではなく、実体なのです。量子力学波動関数が確率振幅であったのは自然界における真理です。波動関数の確率性は実体概念なのです。

そうした観点により熱統計学は抜本的な見直しが可能になるはずです。

 エントロピー発生の転移技術は熱と抵抗の分散転移を可能にするのです。

 大気や海水との運動力学の関係については、以前論じたように、昆虫の羽ばたき飛翔の機敏性はUFOのそれに似ていることから、次元制御を考えても良い。流体力学の無次元数、とくにレイノルズ数のような慣性力に関する無次元数が昆虫の空力特性と同程度になっている。そこからのテクノロジーリバースエンジニアリングを行うのだ。

 

と、まあ、こうした空理空論を並べ立てることでUFOの運動能力の秘密に迫ろうとするのですわ。


www.youtube.com