サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

ハイデッガーの『技術とは何か』を読む。あるいは細胞内の海

 根源語の魔術師ハイデッガー「技術とは何か」を読んだ覚書が以下となります。
 技術ではなく、技術の本質をつかむこと。両者は異なると哲学者は初めに断りを入れる。
まずは、古代ギリシアの4原因説のおさらい。
 質量因 どのような素材からつくられているか
 形相因 どのような形態、形状であるか
 目的因 その製作物はなんのために必要であるか、形式と素材を規定
 作用因 製作物を現実化する原因、職人や技術者や工場生産者

 4原因のどれもが現代の技術では単一ではなく相互に入り組み跨っている。
とりわけ注目したいのが目的因の問題だ。その境界が果てしなく広がっている
発電所の電力の目的は需要者へのエネルギー供給ともいえるが、しかし、それはそれぞれの使途の目的までは言い切れない。
 形式と素材をカバーしきれていないのではないか?

 原因をギリシア人はaitionアイティオンと呼んだ。他の者を引き起こす責めを追う者の意である。
「お供えの器具は皿らしいものの姿かたち(エイドス)が同時に責めを負うことで
引き起こされる」
 エイドスは形相因とも訳される。
 引き起こした責めを負う4つあり方が4原因なのだ。
それは「何かを現れることをもたらし、それを持続させる」ことでもある。
プラトンによれば「現前的でないものから、現前的にありてあり続けるものへと絶えず移り行き、なりゆくものにとっての始動のきっかけとなるあらゆるもの、それが制作、ポイエーシス、つまり、こちらへと前にもたらし生み出すことだ」

 技術の本質とは、古代的観点では、現前させるために隠れたものを「顕現」させることギリシア語のアレーテイアの一種だ。ギリシア語の技術テクネーはポイエーシスに属す。しかもテクネーはエピステーメーと連関していた。どちらも「認識」を表す。
 テクネーは真理をあばく、顕現させること。原義は「こちらへ、前にもたらす」こと。
 技術が本質を発揮しているドメインはアレーテイアが作動するドメインだ。
だが、ギリシア人のテクネーがそのまま現代の技術の本質となるわけではない。
そこに近代以降の精密な自然科学が関与する。
彼の用語は「自然を挑発し駆り立てること」
「このことが生じるのは、自然のうちのエネルギーが開発され、開発されたものが変形され、それが貯蔵され、貯蔵物が分配され、分配物があらためて変換されることによる」
 電力システムをモデルに述べられたハイデッガーの視線は、現代技術の多くの生産物に共通な「サプライチェーン」の読み方でもある。
 多目的多用途多段階とトランスフォームとシャッフルがここでのプロセスである。
 この開発、変形、貯蔵、分配といった手順は反復的である。
 集積と分配と包装と変形(名づけ)により、最終消費者まで届く。けれども消費される地点では挑発の起点は不可視である。

 それに今では廃棄の手順が待ち受ける。処理場に追い立てられ、さらなる混合と変形と分配と産廃化の手順まで進む。こちらも廃棄の終端は地平の彼方である。

 各人はその手順の一部に関与するだけだ。各人の持ち寄るテクネーはより細目にわたり、包括的ではない。「人間を取り集めて、おのずと顕現するものを徴用物質として徴用して立てる、そうした挑発の要求を「総駆り立て体制」」と呼ぶ。いわゆる集立(ゲシュテル)である。
 自然から利用可能な「伏蔵物」を挑発して、人びとを総動員して駆り立てる。かくて技術的な活動は稠密に現代社会のなかに織り込まれている。貨幣商品情報は集立と不可分である。
 現代社会を近代社会から差別化しているのは至るところに浸透している集立である。GPSWi-Fiによって接続されたシングルな種族に従属しているのが現代人だろう。
 たとえ、独りであっても現代人は駆り立てられ、取り立てられる。今や荒野にあっても都会におけると同じように現代人は集立に参与している。

 しかし、ハイデッガーは何によってかくも大規模に人びとが駆り立てられているかかは論じなかった。そこを問い詰めてゆくのは我らの課題だろう。
 ひとつのヒントとして生物現象がある(そういえば、ハイデッガー自身が非常に生物学的な形而上学者だった。彼の存在分析はユクスキュルの影響がある。)

 非常に類似している仕組みが真核生物の細胞内にある。
 人体の細胞一つを考えよう。脳細胞でも肝細胞でも生殖細胞でもなんでもいい。
 核から出た遺伝子情報はRNA分子によりタンパク質合成工場に届けられる。
分子機械はその指令通りに幾種類ものタンパク質を生産する。タンパク質の合成は一筋縄ではいかない。アミノ酸をつなぎ合わせるだけでは目標となるタンパク質にはならない。4次構造まであるのだ。スーパーコンピュータを用いて科学者がシミュレーションするくらいなのだ。
 それを滞りなく、正確に生産するために多数の酵素などが参画する。
細胞内の、しかも、ブラウン運動のさなかの分子の行き来がどれほど煩雑で渋滞しているか想像せよ!
 さて、分子機械が現代人に対置できるというのが、ここでの提案だ。分子機械は目前の状況をミクロに解決(反応)するだけだ。本来の大目標である人体の維持などは分子機械のあずかり知らぬことだ。
 それでも分子機械どもは集立している。総動員されて無数の衝突と叫喚のさなかで自分の使命を果たす。
細胞内の分子機械どもは「総駆り立て体制」下にある。しかも個々の分子機械は自分の果たした反応や運動が何につながるかについては盲目だ。
 だが総体として、共通の目標、いわく生体の維持に向けられている。生きることが駆り立ての行き着く機能であり、テロスとしてのホメオスタシスなる状態なのだ。
 細胞の目的は「生きる」という定義しがたい目的としか表現できないのだが。
 現代社会の運動というのが経済活動なのか、ヒトの生死と移動なのか、それともそれ以外なのか、いわく言い難い。
しかし、総駆り立て運動のいくぶんかはその維持と拡張に捧げられているのは間違いあるまい。
 いずれにせよ、ハイデッガー講演の結論同様にこの問いは結論となるような答えは持ちえないだろう。

人類は危機に瀕すれば瀕するほど、救いへの道はいっそう輝き始める」と哲学者は言い残した。ひたすら問うことは思索の敬虔さそのもであるとも言い添えて。

 

【参考文献】

 下記の二冊の本に依拠した。鋭く含蓄のある表現なので翻訳により見える面が異なる。戦後のこの講演でハイデッガーがふたたび、時代の予言者に返り咲いたという。

 

 

 

ユク・ホイの本書は見たところ、ハイデッガーの血脈を継承して、問うことと思索をupdateしているようだ。詳細は読後にまとめてみる。