サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

10年前の日経サイエンスの記事からの懸念再起

  2012年の日経サイエンスの記事『気候変動 想定外の加速』はネットでダイジェストが読める。

 

www.nikkei-science.com

 

そこには

産業革命以前に280ppmだったこの濃度は現在395ppmである。

とあるのだが、2023年現在のこの値は「415.7ppm」らしい。

ざっくり言えば、10年で20ppm増加したわけだ。

また、同じ記事にはこうある。

2℃以下にするには,地球に熱をためる二酸化炭素(CO2)の大気中の濃度上昇を450ppmまでで止めないといけない。

 残りが35ppm分あるわけであるが、この調子だと17.5年で450ppmになりそうな感じなのだろう。つまり、2040年くらいには450ppmになる算段なのだ。

 大気中の二酸化炭素量はそれが直接的な気温上昇の原因かどうかは異論もあるようだ。例のハイエイタスという2000年代の気温停滞があったわけだしね。

   しかし、強い正の相関性があるのは否定できない状況であろう。第二第三のハイエイタスを期待するのは他力本願だろう。

 さて、この暑くなる陽気、長くなる暑さの期間は現代文明に対する重大な試練であり、どのような影響を与えるのだろう?

 ワットマンのファン付き上着のような耐暑テクノロジーを発達させるしかないのだろうか?

 

反面教師の参考文献

 いかなる不安にも根拠はありません。今までの経済活動は正しかったのはデータが示しています。現代人は反省不要です、という有難い教説の本はどうなのよ。

 

Diracと『罪と罰』の謎

Diracと『罪と罰』は最も縁がなさそうなテーマだ。しかしながら、伝えられることの少ない孤高の天才科学者の有名な逸話であります。

 人に勧められて読んだドストエフスキーの『罪と罰』への感想を聞かれた時の彼の回答が、一風変わったものであった。

「面白かったが一日に二回日が昇った日があった」と答えたそうだ。

 しかし、自分の知る限りその箇所を指定している人やWebを見たことがないのだ。

いったい、どこにそれがあるのだろう?

 

ちなみにLLMの一つであるGoogleのBARDではこうある。

ドストエフスキーの『罪と罰』のなかで一日に二回日の出がある箇所は、第六章の冒頭です。

この章では、ラスコーリニコフが、リザヴェータ・イヴァーノヴナを殺害した後、その遺体を埋めるために、セミョノフ橋の下にある空き地へ向かいます。

ラスコーリニコフは、夜通しセミョノフ橋の下で遺体を埋める作業を続けます。そして、夜が明けようとした頃、彼は、空に二つの太陽が昇るのを目撃します。

ラスコーリニコフは、この二つの太陽を、自分の罪の象徴として捉えます。彼は、自分の罪によって、世界が崩壊してしまったと感じているのです。

 原作ではラスコーリニコフは二人の老婆を殺害して殺人現場からそのまま逃走している。つまり、BARD君は嘘の供述をしているのだろうか?

この巧妙さには誰でも騙される!

大規模言語モデルというのは天才級の虚言癖の持ち主ではないか!

 

【参考文献】

逸話の原典はこちらである。Diracの人望のなさを反映して薄い本だこと。

 

 

【補足】

 ドストエフスキーの本を勧めたのはWignerである。彼の妹がDiracの奥さんとなる。

ところで、量子力学観測問題でWignerの友人というのがあるが、それは誰あろうDiracのことではないだろうか?

あのマスダールシティのビッグプロジェクトの現在の境地

 マスダールシティという壮大な都市開発は、アラブ首長国連邦 (UAE) により2006年あたりから着工されたビッグプロジェクトだ。

2016年までに200億ドル投入して、人口5万人の街を砂上に創り出す。環境に優しくユーザーフレンドリーな最先端エコシティが生まれ出る、はずである。

 どうやらこれまでに建設されたのは目標の5%程度らしい。産業集積も停滞していようだ。

 

ja.wikipedia.org

 

  当時の鳴り物入りの夢のプロジェクトだったようなわけだが、このハイテクシティのニュースは2023年8月時点でググっても古い記事しか引っかからない。

2016年の下記の記事が計画縮小を奉じている程度だろうか。

project.nikkeibp.co.jp

 

 かなり現在に近い状況報告を客観的に行っているのが、MIT Tech Reviewerだろう。

 MITはこのプロジェクトに本格的に参入して、マスダール工科大学 (MIST) に関与していたからだ。

www.technologyreview.

 

しかしながら、著名な建築評論家のオウロウソフが早くから指摘していたように、「ゲーテッド・コミュニティ」という差別前提のコミュニティを経済力によって力ずくで作る試みは危うかったわけだ

情報系の「空間」と集合論のメモ とくに暗号論に関して

 暗号化理論の基礎は記号の集合を別な記号の集合に写像することにある。

 その写像エンコードであり、それは逆写像はデコードだ。全単射であることが条件になる。

 ところで、その記号の集合XXXはバイナリーであることが前提。つまり、長さは問わず0,1から生成された列だ。自然数の集合の一種と考えても外れではないだろう。

 無限ではないが、大きさ(要素の数)の範囲は決められない。おそらくはグーゴルプレックスよりははるかに小さいだろう。ここで問題なのはグーゴルプレックスより大きな巨大数の構成は簡単であり、数字としては作成されていることだ。

 この集合の性質が有限であることは確からしいが、境界が決まらないのが問題なのだ。それは完全性を考えるとゲーデル不完全性定理のスコープになるかもしれない。

ja.wikipedia.org

 有界性も決められない。XXXの記号列は考えられたとたんにそこに追加されるようなタイプの生成途上の集合なのだ。言語は変化しているし、揺らいでいるからだ。

 空集合はこの集合に含まれている。だが、開集合ではなく境界が定まらないので位相空間ではない。

 ここでAI研究者たちは距離を定義し、ベクトルを定義している。それはベクトルめいているが、本当にベクトルなのだろうか?

急進的デジタル技術の社会浸透の見えない代償

 先日のお題「やはり気に入らないデジタル化コネクテッド社会への遷移」つながりだけれど、デジタル化は目に見えて便利で安くて処理が早くなる。それにつられて技術開発結果は即座に市場に投入されるのが当たり前、それがアメリカモデルだった。

 これが医薬品やバイオテクノロジーや大型産業施設だともう少し環境アセスメントとか、有識者会議なんかが立ちはだかり、ちょっと待ったをかける仕組みがある。

目に見えて危害があるからだ。しかるにデジタル化は電磁場とか物理系の安全性さえ保障されてしまえば、新規技術はそくざに市場に投入される。

 よく批判されるのがソフトウェアの製品としての不完全性。バグなどによる信頼性、サービス停止とかセキュリティ脆弱性とかであるがこれは普通の製造物責任の範囲でソフトウェア更新により保証される仕組みがあるし、可視的なものだから製品が売れなくなるなどの市場フィードバックがかかりやすい。

 自分が不安視しているのは、「人格形成」や「公共性維持」や「知覚機能」などというような認知能力や社会性に関わる人の役割形成といった「眼に見えず」「短期間に障害発生の有無不明」なインパクトのことだ。

 サン・テグジュペリは「本当に大切なことは目に見えないのです」と言っていなかったか?

 キーボードに馴染んだ人は書字能力が半端なく低下する。小学生以下の漢字書き取りになっているのだが、それはまだしも分かりやすい方だ。

 SNSのチャットでしかコミュニケーションとれない、あるいはネットワークゲームでしか人と会話できない人たちの存在はちょっと怖いものがある。

コミュ障は流行りことばで見過ごしてはならないのだ。

 もっと不確実性要因は生成系AIの登場と市場への乱入だ。

toyokeizai.net

 EUでは待ったをかけている。それに対して、アメリカや日本はイノベーション阻害したくはないという市場重視主義で反対の政策方針をとることにしているようだ。

 企業育成を優先させるアメリカモデルに右に倣えの日本はいつもの通りだ。

現時点でどっちの方針がいいとは即断できないという立場のは多くの人のものだろう。

しかし、そのインパクトは社会構造と個人の能力に及ぶことは間違いなさそうだ。

 生成AIは異色に見えるかもしれないが、これまでのデジカル化の潮流と外れるものではないことは理解しておいてほしい。

 すなわち、コストとスピードの観点で企業はそれを評価する。よって、人の認知機能を一部を代行させ、やがてマンパワーを次第に低減させてゆき、結果として社会の中間層のポジションにネガティブな影響を与えるのはこれまで通りの流れなのだ。

 

 

 

 

ダニエル・コーエンがグローバル化アメリカ企業の成長の結果について断罪している。

 

やはり気に入らないデジタル化コネクテッド社会への急速遷移

 世の中、ChatGPTのようなAIのブレークスルーやDX、量子コンピュータだの自動運転だのとデジタル化や高速通信などITの話題で引きも切らせない。

 インテル創始者ゴードン・ムーアが亡くなってもムーアの法則は永遠です、みたいな雰囲気だ。

 ここ50年ほどは、パーソナルコンピュータが誕生し、Windowsが生まれ、高速通信網が整備されて、4Gが5Gになり、iPhone&iPadに代表されるスマートフォンタブレット端末が爆発的に浸透する世界的な潮流であったし、あり続けるのだろう。デジタル化の進行は現代文明の宿命なのだろう。

 だが、その50年は少なくとも先進国の一般市民にとっては、生活の質や将来の展望が、ひたすら低下していく時代であったことを指摘しておきたい。

その傾向は21世紀になってから、とどめようがなくなった。アメリカがそのいい例だ。

 21世紀に入ってから、中間層がすり減り、経済格差が拡大したことは誰もが知っている。平均寿命がコロナ以前から減少しはじめており、とりわけ若年層が精神的に追い込まれている。

 リーマンショック後にそれが顕著になっていることが示唆することは、巨大企業が政財界を牛耳るパワーを拡大したことだろうと識者はいう。

 アメリカ的フロンティア精神の挽歌をここで繰り返すつもりはない。自分が最近になって確信が強くなっている仮説を開陳する前置きにしただけだ。

 

 いびつなデジタル化優先社会(アメリカモデル)は以下をもたらした。

1)社会の変化を加速した。進化と劣化の両面があるが、先進国においては経済格差の拡大や政治的な分断の進行を速めた。

2)人間の能力を減退させた。記憶力、会話能力、自己表現能力などである。それは、F2Fでのコミュニティ形成能力の減退を招いた。言い換えると社会の各層で公共性の基盤を毀損した。

3)CPUとメモリと高速通信は広く普くCO2と熱を放出し、Global Warmimingに一役買っている。やがて主役になるであろう。高速通信、データセンター、暗号資産や高機能AIはますます電力消耗が激しい方向に進化するのであろう。

 

 1)の例が街角の本屋の消失だろう。便利さと安さを消費者は選んだことで本屋の消滅は加速した。便利さと安さはITがもたらしたのは言うまでもない。アメリカではトイザらスが破産して、ショッピングモールの一角にあったおもちゃ屋がなくなった。その巨大ショッピングモールも数が少なくなってきている。ピーク時にできたモールの半数以上が廃墟となっているそうだ。こうした傾向そのものはデジタル化とは別に存在したのだろうが、わずか10年程度で生活が様変わりするのはラディカルすぎるのではないか?

 従来の業種のあるものが急速に廃れた代わりにIT業界が急成長した。職場の人びとの頭数が減り、IT関係企業の役員報酬が跳ね上がったというのがアメリカだ。

 

 これらがアメリカが先導し、EUや日本もそのお先棒をかつぎ、中国は本腰を入れた技術社会変革の闇だと思えてならない。アメリカの闇と中国の闇はそれぞれにブラックさが異なる。もちろん、日本の闇もそれなりにブラックである。

 便利さと安さと速さの代償を一般市民は払いつつあるのだと思えてくる。そして、誰もそれを止めろと言わないし、止めるすべもないのだ。

 でも、せめて変革と進化の速さは減速してほしいのだが、どうであろうか。

 

 

  負の参考文献として、ダボス会議のレポートをあげよう。すごく省略していうとこれまでのイノベーションを継続して効率的に運用しようと言っているようなのだ。

 グローバルで認められる賢人たちの賢明な提案というのいうのは、そういうものなのだろう。

 

 GDPは経済学者の最大の発明なのだそうだ。GDPを上げることが当たり前の世界にいつのまにやらなっている。GDPに貢献する一つの典型例がこうだ。

 高級な自動車を買い、保険に入って、交通事故で大破させる。以下、これを繰り返す。交通事故統計を見る限りでは、アメリカ人たちはこれを実践しているようだ。

 

不可能性の四品種と無の5種

 子ども時代に感銘を受けたSF『不可能性の四品種』というノーマン・ケーガンの作品がある。尖がった数学科の秀才、つまり「アンファン・テリブル」が技術的な不可能、科学的な不可能、論理的な不可能を超えた第四の不可能を突き止める、みたいな壮大な空論だった。

 古代インドでも因明による壮麗無比な空論が発達した。そのうち、大きな共鳴を持ったロジックが「無の分類」であります。

ヴァイシェーシカ・スートラ』についての宮元啓一の要約&翻訳を引用します。

先行無  〔結果である実体は、それが生ずる以前には〕運動や性質といった標印がないから〔認識できず、したがって〕非有である。

破壊無  有〔である結果は、破壊ののちは〕非有である。

交互無  〔たとえ〕有であっても、〔《牛は馬ではない》というように、ほかの有の否定によって、また、《荷物を運ばないからこれは牛ではない》というように、因果関係によって〕非有である〔といわれる〕

絶対無   そして、有とは異なる〔絶対無としての〕ものも非有である。

関係無   《家に水がめがない》という場合には、有である水がめと家との結合が否定されている。

 このうち、絶対無はいまいちほかの無との差異が不分明である。

 しかしながら、無について突き詰めていくと5種に分かたれるという強靭な空論力は見上げたものだ。論理学は文化非依存というのは思い込みなのかもしれませんね。

 

 

ケーガンの短編を探し出すのに苦労したけれど、ジュディス・メリルの傑作選ではなくて、ウォルハイム&カーのアンソロジーに含まれていた。

 

 京都の出版社が出している法蔵館文庫は細切れにされつつある現代人の心を修復するようなラインナップだ。