古代の豪族、秦氏はどこから来たか。
中学生の同窓で秦という友人がいた。中華料理屋の息子だったのを記憶している。
そういうわけで、個人的にかなり興味あるテーマだ。
秦氏自身の系譜によると秦の貴族の末裔ということであるが、現代の歴史家は誰も真に受けていない。むしろ戦乱が多かった朝鮮半島からの亡命一族であるとしている。
京都の太秦(うずまさ)はその名の漢字の示すように秦氏の本拠地だったという。今に残る広隆寺は秦河勝の創建だと伝わる。その弥勒菩薩の半跏思惟像は国宝だ。弥勒信仰は古代の半島で盛んであったとされる。とくに新羅との関係が濃厚とされているだ。
そのあたりを記紀の知識を総動員してまとめているのは、上田正昭『帰化人』である。秦河勝は聖徳太子とも関係が深い。また、冨士川流域で発生した新興宗教を弾圧した事績でも有名である。
その新興宗教の発生地、静岡地方には秦氏の直轄地があったようだ。大阪寝屋川市には秦町がある。岡山県吉備郡にも秦村福谷があった。埼玉県北部大里郡あたりには秦村があった。神奈川の秦野市もその一つだという。
元に戻って、秦氏はやはり中国から渡来したとみるべきではないだろうか。その論者の一人は内藤湖南である。彼は秦氏の信仰対象が山東省の在来神と同じ事を指摘している。
それにもまして、当時の王朝人は大陸と密接に関わっていた。半島人であれば、貴族や文人たちは即座にその詭弁を見抜けたと思うのだ。なにしろ半島からの亡命貴族はたくさん来朝していたのだ。秦氏は多くの学芸・技芸を身につけた多能な技術集団だった。絹織物を生産できたというし、機織り(はたおり)は秦氏に由来するという説もあるくらいだ。また、不思議なることに観阿弥・世阿弥は自分らの能楽の先祖に秦河勝をあげているのだ。
知識と技術を身につけた職能集団として安定した土地を求めて移り住んだのではあるまいか。聖徳太子は大工の守護神となっているが、これも秦一族と関係がありはしないだろうか?
ちなみに秦氏は聖徳太子の一族(上宮王家である山背大兄王)が没落するのと運命をともにした。上宮王家の滅亡後に、うつろ舟で秦河勝が島流しとされた伝承もある。その島は赤穂市の生島であるとされる。
本題に戻る。
三国が争っていた朝鮮半島はあくまで、その経由地だったのではないだろうか。
秦氏が秦と関係があるとすると各地に残る徐福伝説との関係を調べるのも面白いかもしれない。知るかぎりでは秦野市には徐福伝説があるそうだ。
- 作者: 上田正昭
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1965/06
- メディア: 新書
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
- 作者: 水谷千秋
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/12/16
- メディア: 新書
- 購入: 2人 クリック: 18回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
- 作者: 梅原猛
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2008/12/06
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 3回
- この商品を含むブログ (7件) を見る