70億人の人びとが話す言語はおおよそ500から1000くらいだろうか。そのなかで、学問ができる言語はどれだけあるだろうか?
この設問のきっかけは次の逸話にある。
明治時代に欧州(イギリス、ドイツ、フランス)に留学した日本人科学者がお前の国の言葉で学問ができるのか、論文が書けるのかと聞かれた。「出来る」と答えたところ大いに驚かれたそうだ。
欧米圏以外で独立した(自然科学に限定した)学問ができる言語は当時(19世紀まで)は、ほとんどなかったに相違ない。アメリカ合衆国とロシアも欧米圏とみなせるので、自然科学の研究を自国語でできる民族は皆無だったとしてよい。
これはちょっとした驚きではないだろうか?
数学を例にとろう。西洋数学を英語、ドイツ語、仏語、ロシア語以外で研究できた民族はどれだけいたろうか?
例えば、インド人は数学の天才を生み出してはいた。マハラノビスやラマヌジャンなどがそうだ。しかし、明らかにその論文は英語であった。英語、ドイツ語、仏語、ロシア語以外という意味で、わずかな例外としてオランダとスイスがあるかもしれない。
オランダにはホイヘンスが、スイスにはベルヌーイ一族がいたからだ。しかし、その論文はラテン語だったことは想起されてもよい。ラテン語が標準学問言語でなくなった時、スイスやオランダはすでに数学の主流ではなくなっていた。
もう少し強力な例外はポーランドとハンガリーだろう。しかし、その民族が数学の発展に寄与するのは20世紀になってからではあるけれど。
日本の事情に戻ろう。その本質が明確になるのは他のアジア諸国との対比においてだ。
フィリピンやベトナム人などのエリートは日本の同クラスの人びとより英語の能力がはるかに勝る。彼らエリートからすると、英語力が低くてアメリカの大学でまともに討論すらできない日本人を蔑む傾向があったという(高度成長時代以前の逸話だ)。日本の科学技術はモノマネでしかない、創造性も独自性もないと見下げている時代があった。
欧米に比べて劣るかもしれないが、今日では科学技術の一流国であるのを否定することは難しい。少なくともアジアの諸国のなかでは抜きん出てるのは間違いないのだ。
とくに、中華人民共和国や韓国を含め部分的にはともかく、全体的に近代科学技術への貢献という点で日本に比肩し得ないといっていいだろう。
これはなぜだろうか?
答えは、江戸時代から明治大正になされた西洋科学の「翻訳」による大衆教育的な消化によるのではないだろうか?
つまりは、欧米圏の学問の概念と用語(ジャーゴン)が「翻訳」されていることからくる優位性が日本にあったためだ。ちなみに出版点数で20世紀初頭の日本はアメリカ合衆国に追いついていたとアンティアン・センは日本の教育出版の活力を評価している。
これは科学技術がエリートだけにより形成されるのではなく、広い裾野をもつ厚みのある人材により生み出されているといっていいだろう。とくに「天才の時代」は終わり巨大科学や産業的な技術開発の時代になってからは秀才プールがあれば科学進歩が達成される時代相で、日本的な組織による生産性が生かせるようになっていることもあろう。
自国語で自然科学の基礎を理解できるという利点は他のアジア諸国にはない強みではある。
だが、それがある意味では表面的な理解ではないとは言い切れないのも事実だということは識者が至るところで指摘している。高木貞治は晩年にも日本人の独創性のなさを指摘していた。
重厚深淵なるギリシア・ローマの学問的伝統に根ざした哲学(フィロソフィア)が根源的差異点であるとすれば、日本に丸ごと移植するのは相当に難しいだろう。
ただこれだけは言える、自然科学において自国語でやっていける言語は、ヨーロッパ語圏外では、おそらく片手の指で足りるだろう。これは自然言語についてもパレート則が成り立つことと関係がある。*1
圧倒的な不利な状況にも関わらず、ガラパゴスと言われながらもその伝統を続けていくならば、別の貢献の道筋も出てくるのではなかろうか?
【参考資料】
本ブログに即した書籍である。日本の事例も取り上げられている。
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