十二世紀ルネサンス関連本を読んで興味を感じたのが、キリスト教の異端であるネストリウス派だ。紀元431年のエフェソス公会議で異端として断罪され、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)から追放された。
はじめはエジプト、それからシリアのエデッサで拠点をつくり、シリア語で自派の教えを説く学校を開設。
ところが東ローマ帝国の皇帝ゼノンが迫害した結果、閉校。ササン朝ペルシアに助けを求めゆくわけであります。
「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」で、ペルシアの王朝の支持を得ることが出来ます。ちなみに、ササン朝の国教はゾロアスター教でありました。
その王国の都市ニシビスに活動拠点を置き、その教えを中央アジア、ひいては中国まで拡大してゆくわけであります。
それはともかく、ネストリウスの教師たちはキリスト教聖典とともにギリシアの古典を持ち込み、シリア語に訳していくわけであります。ササン朝の啓蒙君主といわれるホスロー一世がアレクサンドリアのムセイオンを真似た研究施設をつくります。ここで、ギリシア科学を範とした医学、天文学、数学などを研究しました。
そして、当時のリンガ・フランカ(共通文化語)はシリア語でありました。
また、ビザンチン帝国のユスティヌスがプラトン主義の系譜をひくアテナイの学校を閉鎖した際にも、その学者たちを受け入れたそうです。
このシリア・ヘレニズムを介してイスラム科学にギリシアの学問が流れ込んでゆき、そして十二世紀西洋に逆流することで、近代科学の基盤となったというのが、とくに伊東俊太郎が力説した「十二世紀ルネサンス」論でありました。
ネストリウスのもう一つの興味は言うまでもなく、唐の長安にある「大秦景教流行中国碑」、つまり、景教という名称で栄えたという記録であります。大秦寺というネストリウス派のキリスト教寺院があったのだ。
つまり、貞観12年(638年)から9世紀半ばまでは中国でネストリウス派が活動していたらしい。
紀元844年の会昌の廃仏で中国のネストリウス派は根絶させられてしまう。
唐代の中国にアラビア科学と同様な動きが起きなかったのは史実だ。これは景教が根付くまでの条件にいろいろと制約があったのが主因だろう。けれども1000年後の清の時代にイエズス会士のマテオ・リッチやアダム・シャールが西洋科学や技術を紹介しても、それが中国社会に大きな影響を与えなかったことと比較してもいいかもしれない。
空海も大秦寺を見ているはずである。空海が入唐求法していたのは804年であります。
空海が開祖である高野山に明治時代に大秦景教流行中国碑の模造碑が1911年、アイルランドの研究者ゴルドン(Gordon)夫人により造られた。彼女はネストリウス派が真言宗に紛れ込んでいると信じていたという。
残念ながら、ギリシア学芸の文献は古代日本に到達するこはなかった。アリストテレスを遣唐使が請来していたら、別な歴史空間が世界を覆っていただろうにね。
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