サイエンスとサピエンス

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和算の技術史的な役割:あるいは算術的富国強兵

 江戸時代300年間に飛躍的に発展を遂げ、維新とともに消滅の光輪を描いた和算。その和算は洋算(西洋数学)から見れば、競争力も普遍性もなく、所詮はヒコバエであった。
そういう評価は確定的であろう。
 さりながら、ここでは明治の産業革命。19世紀の後進国としての日本が30年を経づして西洋列強に負けぬ強国の一つとなった江戸人の特性としての評価はありうる。またそういう人たちが多い。
 明治期の柳楢悦の生涯はその典型であると思う。
 もともと伊能忠敬の日本地図に示された測量術の高度な計算能力は、算木の使用、つまりは和算の素養がベースとなるわけであります。
 柳楢悦は帝国海軍にあって、日本地図の海図版の製作に従事したのですが、彼は西洋算術を習う直前は和算にて数学能力を逞しく育てた。「海の伊能」と呼ばれた彼の前身は和算である。

 明治以降の和算家の転身については、三上義雄を引用しよう。

維新後から明治二十年過ぎの頃までは、学校教科書の整頓と、教科書の作製と、西洋数学書の翻訳などが最も主要な事項となる。鏡光照のごとき和算時代に相当の独創能力を発揮した人物も独自の研究を止めて、数学講議録の発行等に全力を集中するようになった。

 
 そのような人物像の顕著な例を三上義雄はこう紹介する。

 川北朝鄰は和算家としての名声をにないつつ、洋算の造詣は深からず、かつ外国語の素養もないので、初め上野清と合同して諸算書の翻訳刊行を企て、上野と衝突するに及んで、門下の後進たる長沢亀之助をしてそのことに当たらしめ、長沢の訳したものを、川北が浄書し校閲の銘打って、わが手でこれを発行し洋算普及の上に少なからざる効果をもたらした。この一事から見ても、その当時には和算家としての川北朝鄰の名望が洋算普及の上に効力のあったという著しい事実を思うべく、その事業の進行につれて長沢亀之助は造詣を深くし、また株があがって教科書作者としての重要な地歩を成すこととなった


 西洋技術を体得するには数学能力が基礎となるというのは常識ですな。ほとんどの民族はここで躓いていた。
 列強の植民地であるインド然り、インドシナの民族然り、アフリカ諸国然り....。300年以上西洋文化と接しながら数学能力の発展は微々たるものがあるのがこれらの植民地なのです。
 植民地化された民族のエリート層は数学などという利益や収入、さらには社会的地位と無関係な学問を軽視する傾向が強かったのです。

 それに比して江戸時代や明治期の日本人は違っていた。
 洋算の学習は和算の能力があるから比較的スムーズにできた。なぜなら明治初期までの和算家たちは洋算を和算的に解釈する幾多の洋算教科書をものしていたのです。
 さらに少数のエリート層だけではない。「読み書き算盤」という言葉が具現されたのが寺小屋教育であり、町人や商人、農民に武家に至るまで算術には長けていたのであります。
 明治期の産業発展と国力充実には、西洋技術を自らのものとしなければならなかった。それが短期間に達成できたのは和算や算術が幅広い層に広がっていたからだと思うのであります。
 でありますから、明治以前の和算家たちにはもう少々尊敬の念をもつべきでありましょう。

日本の数学 (岩波新書 赤版 (61))

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文化史上より見たる日本の数学

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 海軍が洋算と和算をつなぐ役割を果たしのは興味深い。江戸末期の長崎の海軍教練所にそれは始まる。

日本の数学100年史〈上〉 (1983年)

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