サイエンスとサピエンス

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自然科学が宗教を否定しさることの困難性

 自然科学は宗教を否定しさることは困難であろう。例えば原子論に聖なるものの否定原理を求めてみてもそれは対象が異なるレベルにあるため、聖性の否定の説明とはならない。
 原子論あるいは自然科学的世界観はその説明範囲を限定した場合にのみ有効である。それを異なるレベルのものに適用するというのは前提に対する違反となろう。
 自然科学は国家の実在性に適用できるだろうか? 
No&Night! 出来はしない。
 もちろん国家を否定するのは構わないが、その論者は善良なる市民として国家の定める法律に従っているに違いあるまい。それはダブルトークというものだろう。
 興味深いことに近代国家と文明の成立が精密な科学技術の成立と切っても切れない関係にある。重力波測定やヒッグス粒子の観測のような巨大実験装置は、厳格な測定装置の管理と較正および科学技術者集団の統制と標準化された仕組みといったような社会活動がなければ、成果はおろか実験ができない。
 言うまでもなく、自然科学はそれを信じる個人の自我や意識の存在を証明出来はしない。
 今でもそうした自然科学的な解明は続けられはしているが、バートランド・ラッセルという個人の自我そのものが自然科学的な説明で実在性を示せるとは到底考えられない。
 それが人工知能の吐き出す膨大な論理演算の羅列として可能だという立場もあろうが、ゲーデル不完全性定理があるので、それは無理筋ではないか。

 異なるレベルの説明原理のみが原子や素粒子と人間やその社会とを分かつ。そういうしかあるまい。
自然科学のスコープは時間と空間において遠大なものである。その偉業は壮観である。だからといって、短時間で再現不能な事象の数々を否定するほどのパワーはない。社会や歴史、芸術などほんの一瞬のイベントや神の非実在性について証明などできはしない。
 翻って、原子が実在するとは、どのような言明なのか?
その社会的な是認の手続きは驚くほど多数の巧妙な推論と手段の積み重ねである。科学者コミュニティの是認、是認に至るまでの実験による手続きの数々、その実験を成立させている法則の巧妙な演繹の蓄積(ランダムネスの仮定や温度、光学法則や計測技術の階梯がそこに含まれているのはペラン『原子』を参照されたい)である。
 ニュートンがプリズムで太陽光をスペクトル分解したようなシンプルさは原子論の成立推論にはない。複合推論であり科学者集団のコミットメントが原子論を裏付けている。素粒子論の最先端、ヒッグス粒子の存在となると、ますますその規模と複雑性は拡大するだとろう。
 つまりは自然科学における原子の実在性というのは半ば社会的半ば構成論的な複雑な定理のような様態にあることを指摘しておきたい。だれでも原子を観察できるというような単純な実在ではない。
 それを世界の根本原理にしようというのは、言ってみれば一つの「神学」だ。複合構成概念を「原理」であり「根底」であるというのは高度な推論の組み合わせ結果を原理に転置していることを十分に理解しておく必要があるのだ。
 原子論もそうだが優れた自然科学の学説は「モデル」に依拠しているようだ。素粒子物理学は標準モデルと自称している。
モデルはリアルとは異なる。説明できないものや夾雑物とみなしたものを捨象するのがモデルだ。

 そこにいくのと聖性の受容などというのは素朴な感性によほど近い。理神論は高度な理論武装の外観をとるが、所詮は直観を塗り固めたものでしかない。その代りに原子論のような転置はない。ありのままを無反省に直接的に受容してそれを是とする。素朴な立場だ。
 ということからも宗教的な直観による聖性の肯定論と原子論=還元論的な否定論は、方向性が逆である。しかし、分が悪いのは原子論=還元論的な否定論であることは境界侵犯から明らかであろう。

 多元主義的な宗教学者J.ヒックの本を読んだ感想であります。

 ノーベル賞を受賞したペランの古典。アインシュタインブラウン運動論はそのまま原子の実在性に使われている