サイエンスとサピエンス

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ライン、あるいは線の実在性

 線(ライン)は日々の活動のいたるところに現れる。「歩く、織る、観察する、物語る、描く、書く」ことはラインにそって進行すると文化人類学者インゴルトは指摘している。インゴルトの洞察はあとで触れるとして、自然界における線(ライン)はどうなっているのかが、気になった。

 ここからは、その備忘録だ。

その出発点は、ユークリッドの定義になるだろう。自然界の理解には幾何学が土台になるからだ。その優れて簡潔な指定は十数文字である。

  定義1ー2 線とは幅のない長さである

 自然界で「線」の典型は物体の形状、なかんずく結晶などの境界であろう。しかし、この線は数学的な線から逸脱する。直線ではないし、曲線ですらない。原子から構成されているからだ。顕微鏡で拡大すれば、それがギザギザであり、フラクタル的に立ち現れる。もっと拡大すれば原子にいたる。

 不正確な表現だが、どのような物体も拡大視すれば、点状の存在の断続的つながりになるだろう。そこには線は存在しない。

 もう一つの「線」は軌跡だ。物体の運動の描く形状だ。ここに線は実在するだろうか? 運動方程式の解としてはあるだろう。慣性の法則はそう宣言している。

でも、線なのだろうか?

 もっと正確に疑問を定式化すると観測された運動は線なのだろうか?

 数学的な意味での線ではないだろう。幅のない長さになってないだろうし、連続性も保証できていない。観測値として離散的にデータをとることしかできないからだ。

 かりに線であったとして、力の働ていない物体の運動が直線であることも保証の範囲ではない。軌跡を扱うときに必要となる重心というのも力学上の仮構だろう。時間の連続性も保証はないようだ。

 光の線、光線は幾何光学上の仮構である。重心運動に類比できるのではないか。

光子の軌道もQEDファインマン経路積分などをみると「直線」ではないだろう。

朝永振一郎の有名な「光子の裁判」では離散的な軌跡を主張している。

 

 よって、ひとまずの結論は、「自然界において線は実在しない」となる。原子論が前提となると点というものが基礎となり、それ以上の幾何要素、線とか面というのは数理モデルに過ぎないようだ。

 グラフやオシロスコープに描かれる線は近似モデル、表現でしかない。考える上での文字表現の種類であろうということになる。

 ここまでくるとティム・インゴルトの文化人類学的な考察対象である、物語りや歌、描画、書字、踊りの表現とかなり接近してくる。