サイエンスとサピエンス

気になるヒト、それに気なる科学情報の寄せ集め

科学技術発展の楽観論への疑問点

 サイエンス好きでテクノロジーのヘビーユーザである自分が言うのも何だが、これまでのような科学技術発展が環境問題を解決して人類をますます繁栄させてくれるとする単純な楽観論には、大きな「?」をつけたい。

 ここで「これまでのような科学技術発展」とは何かを事細かく定義し、「単純な楽観論」が何を指すかを説明しなければならないのだろうが、それは別の機会にしたい。
 簡潔にこうしておく、「これまでのような科学技術発展」とは人間中心主義の西洋の16〜18世紀に始まる科学技術の発展の傾向であるとしておく。当然、我らの属する世界システムはその発展をバネにして今日に至る。
「単純な楽観論」とはマット・リドレーの『繁栄』、ピンカーの『暴力の人類史』それにややや慎重なケリーの『テクニウム』などが典型だろう。いまこの時代における史上空前の人口のピーク、かつてない消費生活の豊かさ、貧困層の低減、大型の紛争や犯罪の減少基調などを主要な論拠とする。
 確かに圧倒的な豊かさ、それに選択肢や諸権利の自由などをかなりの比率の一般市民が享受できるのは事実だ。
 まあ、しかし、それらの論拠はしょせん「これまでの」繁栄であり、これからの行く末についての論拠としてはあまり説得力がない。
 あたかも絶壁で終わる上り坂をバックミラーを見ながら運転しているようなものだ。履歴はそのままでは、先行きについての論拠ではない。これまで絶好調だったから、これからもそうであり続けるということにはならない。
 その傍証は近隣種の絶滅の加速だ。ここで、近隣種とは大型哺乳類としておこう。ゾウがここ数万年で種の数を目覚ましいばかりに減少させたこと。その最大の淘汰圧の要因は人類であったのは明らかだ。ゾウだけではない。サーベルタイガーなど1万年前の古代文明の黎明期の直前に多くの哺乳類が滅亡した。アメリカのような新大陸でも同様な傾向があった。
 つまり、ホモ・サピエンスと生存圏を同じくする野獣は排除される。人類と競合するからである。それがダーウィンの指摘でもある。それが17から18世紀の科学技術による近代文明の膨張により、一気に加速している。それは否定できないだろう。
 そして、リドレーやケリー(『テクニウム』に著者)のもつ科学技術へのほぼ全幅的信頼が現代人の主流である限り、その加速はとめようもないだろう。

 なぜ、近隣種の滅亡が人類そのものを危うくする証拠なのだろうか?
説明しよう。アイルランドのジャガイモ飢饉を例に取る。馬鈴薯=ジャガイモが貧困にあえぐアイルランドに導入されて、島民はひもじさが大きく減少した。人口も増えた。しかし、ジャガイモだけに依存した農業が破綻する。病気のせいでジャガイモ不作になったのだ。
その飢饉に耐えかねて、アイルランド人はアメリカに大量移住する。それがニューヨークのアイルランド人なのだ。
 これはモノカルチャー=単一食糧に過渡に依存した結果だった。単一種は環境に適合したとしても脆弱なのだ。別に人類が未知の病原体で滅ぶなどということを言いたいのではない。
 食物連鎖のピラミッドの頂点にいまや人類だけが君臨する状態だ。しかも、それを支える農作物や家畜はわずかな種だけになっている。いびつな食物連鎖のピラミッドは不安定なことを指摘はしたい。
 もっと本質的な事態はこうだ。単一種の急速な繁栄と競合する種の排除は生態系を不安定化させる。
 言い換えると、人類のニッチ空間における生物多様性の喪失は自身の存続の基盤を掘り崩すということだ。
 こんな抽象的な言い方で多くのヒトを説得できるとも思えないが、自分はそう主張したい。大型哺乳類の殺戮は人類自身の存続を危うくする行為なのだ。


6度目の大絶滅

6度目の大絶滅

コルバートってあの古生物学者の親戚なのかな。