数学におけるゼロ、あるいは数字としてのゼロが歴史的な始まりの時点で、どんななまなましさや深さや可能性があったかを想像してみたいのだ。
数学におけるゼロが、仮に存在しないとなるとどうなるだろうか?
負数はありえなくなる。方程式論はじつに混沌としたその場限りの解法の集成になるだろう。虚数もありえないだろう。数体系が不完全であるため、群や体などの代数の道具も生まれはしない。
原点など思いもつけないので数直線は存在しない。なので、解析幾何学はありえないだろう。そうすると微積分学は諦めてもらうしかない。つまりは、古代ギリシアの幾何学の延長しか数学という名にふさわしい学問はないことになろう。数論もディオファンタスのおさらいだけだろう。
ということで、ニュートン力学以降のすべてを放棄することになろう。また、コンピュータなどという代物はソロバンか算木が代行していることになろう。その世界ではインターネットをソロバンで実現しているだろうか?冗談にもならない愚問であろう。
電磁気学はありえないのだ。負の電荷など考えられないからだし、電流も想像の枠からはみ出していたことだろう。それにMaxwel方程式を考えつく能力など誰にもないだろうし。
つまり、かなり太平楽な農耕社会にとどまっていたと想像される。ゼロのおかげで国家財政の赤字額に驚き、ボーナスの桁数の少なさに嘆くハメになる。
もちろん、記法としてのゼロはバビロニアやエジプトにも存在したし、ヘレニズム期の地中海世界にもあった。ゼロがインドで7世紀頃出現したとされるのは、位取りと組み合わせたゼロ記号は他の数字同様に演算対象となっていたからだ。7世紀初頭インドの数学者ブラーフマグプタの天文書「ブラーフマスプタシッダーンタ」に現れた。歴史上の出現は天文書である。しかし、その思考の源はもっと遡れるだろう。
それがアラビア数字としてルネッサンス期の西洋に輸入されることから、ヨーロッパ数学が花開く。
では、どうして数字としてのゼロが記数法に組み込まれることができたのか?バビロニアの何もないという「空白」のゼロと何が異なっていたのか?
インド思想との関係があるというのがほぼ定説だ。
単なる無と「空」は区別しておいた方がいいだろう。サンスクリット語の空=sunyaはアラビア語語源のcipher(零とか暗号)に通じている。やがて、それがzeroとなった。
この方面の権威である中村元の言を引用しておく。『インド思想史』よりだ。
インドの数学は祭祀に関連しておこり、天文学と平行して発達した。インド人は数に関す
る感党が極めて鋭敏であり、非常に巨大な数や、逆にごく小さな数が宗教型典や文芸作品の中にしばしば現われる。これはインド人の空想性と分析性とを示している。他方、かかる思索力のために紀元前二世紀ころに零の観念を発見した。
龍樹が活躍したのも紀元二世紀なのだ。これは偶然の一致とは思えない。
大乗仏教の大成者である龍樹の思想では空は本体のない存在というほどの意味である。
空についての論考である主著『中論』では論理的に存在の本体を突き詰めている。
実のところ、龍樹の思考とゼロの接点の直接的証拠はない。しかし、龍樹はインド論理学のもとを生み出した。それが中国名でいうところの因明になる。
龍樹は否定の論理を展開するのだが、否定とか空には現代論理や数学でもある肯定性が隠されている。
例えば、notという否定演算は二回作用させれば肯定になる。空集合φは数字を生み出す。集合の個数を考えるといい。φの個数はゼロ、{φ}からなる集合の個数は1になる、{φ、{φ}}は2という具合だ。
空はすべての数を生み出す。つまり、空は有を生み出す。
存在の空性は完全な虚無ではなく、それ自身に作用して果てしなく有、本体のない有を生成する。それが集合論でも同様、あるいはコンウェイの数のゲームでも同様なのだ。
世界の虚妄性、マーヤのヴェールは空の自己展開の幻惑であるとも言えるかな。
自分としては、ゼロという数字は空(sunya)と隣合わせで生じた(らしい)。この科学技術文明の重要な要素であるゼロを含む記数法と大乗仏教の「空」が隣り合わせに生まれた。よって、その内容にはインドの否定の論理と存在論が埋め込まれていいたと想像したいのだ。
言い換えると、輝かしいくも超高層ビルが乱立する大都会に象徴される現代文明はそれと双子の「空」をもとに構築された数理科学の産物なのだということもできよう。
これは言いすぎかもしれないが。
【参考文献リスト】
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ゼロと記数法をもとに計算&設計された巨大建造物やそれを支える物流ロジスティックスやエネルギーフローといったものは、数字で語られた技術の賜物だ。
「空」という理法をもとに虚空から現成されたカルマの渦と「見なす」こともできよう。