サイエンスとサピエンス

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世界の中立点インドから見た日本近代史

 グローバル・ヒストリーが静かなブームである。ウィリアム・マクニールやアナール学派の本、近代世界システムなどが注目されている。ピーター・バーグ浩瀚知識社会学の本や認知心理学分野のスティーブ・ピンカーまでものが歴史ものを著している。
 それはさておき、偉大な政治家は偉大な歴史書をものする能力に長けている。ローマ帝国カエサルに始まり、20世紀のチャーチルに至るまで実例に事欠かない。独立インドの初代首相であるネルーもその一人だ。彼は独立闘争の時代に、長い獄中生活を余儀なくされた。 その閑暇を惜しんで著された書籍が『父が子に語る世界史』である。古代から20世紀なかばに至るまでのグローバルな史観が一流の政治的頭脳、それも西洋と東洋のハザマにあった人物によって記述されているところがユニークである。
 一言添えておくとジャワハルラール・ネルーガンジーの側近でありながら、きわめて現実的な政治路線をとり、第二次世界大戦後の第三世界のリーダーシップをとった偉大な傑物である。ケンブリッジ大学で自然科学を専攻し、かつ、イギリスで弁護士資格をとっていることも注目すべきである。

 「日本」をふりかえる重要なスタンドポイントをネルーのこの書は提供してくれている。敵対的でもなく友好的でもない、しかしながら、同じアジアに身をおく帝国主義への反抗者としての立場だ。ガンジーネルー、そしてやや年長のタゴールの世紀、この期間は長いインドの歴史において初めて日本が意識された瞬間でもあった。

 ネルーの捉えた日本を取り出してみたい。
 世界史への日本の登場の仕方は、不幸にして史実ではない。神功皇后という軍神の母親(応神天皇の母)みたいな伝説の女性が、日本の攻撃性のシンボルみたいに扱われている。しかし、女性が世界史上に名を残すという点では間違いない。卑弥呼が攻撃的な国家支配者だったとは思えないが、天照大神も女性である。

紀元二〇〇年頃にはジンゴ(神功)というある皇后が、ヤマト国家の首長の地位にあった。ヤマトというのは日本の固有の名であり、またその中の、かれらが渡来当時定着した地方を指す。

かくて、神道ネルーによればこうなるのだ。

>>日本人は、むかしからいまにいたるまで、戦闘的な民族だ。軍人の主たる徳目は上長と同輩にたいする忠節だが、これがまた日本人の美徳であり、かれらの強さは多くこれに由来する。神道は、このような徳をおしえる――「神々をうやまい、その子々孫々に対し忠節をつくし奉るべし」。――このようにして、神道は今日の日本にまでつたわり、いまだに仏教とともに存続している。<<


 そして、神道は今日でも仏教と共存しているとまとめている。

仏教が渡ってきたときには、古来の神道と仏教とのあいだに、いくらか摩擦を生した。しかし間もなく、それらは並存するようになり、今日にいたった。神道のほうが、いまでもより一般的な信仰で、支配者階級は、それがかれらにたいする服従と忠節を説くという理由で、奨励している! 仏教は、ともかくその元祖が反逆著だったくらいだから、わずかながらもどちらかといえば危険な宗教なのだ。

 日本の芸術史は仏教とともにはじまる。日本、あるいはヤマトは、当時中国との直接の交渉・をも始めていた。とくに、その首都長安が全アジアにきこえていた唐朝時代には、中国に常駐の使節がおかれていた。そればかりか、日本人、もしくはヤマト民族は、みずからナラ(奈良)という新都を建設し、これを長安そのままの模型にしようとした。日本人はむかしから、他人の模倣にかけては天才的な才能をもっていたものとみえる。

 インド由来の仏教によって真善美が日本に芽生えた、というわけでもなかろう。いずれにせよ、文明は中国とインドから来た。日本はそれを巧妙に取り入れた。そういう評価なのだ。他人の模倣にかけては天才的な才能なのだ。そういうよりも、日本の独創とは模倣を極限まで進め異質なものと混ぜわせることだと思うのだ。

 次の日本の記述は頼朝による武士政権を扱っている。20世紀前半まで大日本帝国は戦争に明け暮れていた。それがこの文章にも反照している。それでも、海外では日本人は軍事的な民族という思いが定着しているのは事実だ。長期的にみてそれはありそうなことである。

日本の将軍政治〔幕府〕ははじまった。これはひじょうにながく、七百年近くものあいだ、ついさいきん、近代日本がその封建的な外殻をやぶっておどり出るまで、維持された。
.........
中国はすでに述べたとおり、本質的に平刹な、穏健な国だったが、日本はこれに反して、好戦的な軍事国家であつた。中国では軍人は蔑視され、戦争屋はあまり名誉なものとはされなかった。

ついで、徳川時代鎖国が同情的に扱われる。ネルーは短いセンテンスに二度も「おどろくべき」と述べている。

日本のこの反応は、同情できる。むしろかれらが、ヨーロッパ人とほとんど交渉がなかったにもかかわらず、宗教という羊のころもをかぶった帝国主義の狼を看破するけい眼をもっていたことこそ、おどろくべきことだ。
.....
かくして、歴史上にめずらしい現象がはじまった。熟考ののち、孤立と、閉鎖の政策が採用され、そして、ひとたびこれが採用されると、おどろくべき徹底性をもって遂行された。

 ポルトガルのみならずスペインに対しても極東の小国でしかない日本に武力的閉鎖ができたというのは、ある意味では凄いことだ。同時代に南アメリカやアフリカでわが物顔に植民地支配を拡大していた大帝国であったのだから。おそらくサムライという戦闘的集団と対峙するほどの余裕も日本という土地の経済的魅力もなかったのだろう。


鎖国」の意味をネルーは積極的に評価した。太平洋戦争の敗戦の原因を求めた和辻哲郎とは異なる評価である。

この鎖国はまことに異常な現象で、有史以来、他のいかなる時代、いかなる国にも、類例をもとめることはできない。神秘のとばりにつつまれたティベットや、中央アジアでも、隣国との交通が断えたことはなかった。
ひとり孤立するということは危険なことだ。個人にとっても、民族にとっても、いずれにせよ危険だ。しかし日本は、それをきりぬけた。そして国内の平和をたもち、長期間の内戦のいた手をいやした。そして、一八五三年をさいごとして、ふたたび扉と窓とをあけはなったときには、日本はまた一つの奇蹟を成就した。日本は驀進をはじめ、うしなわれた時をうめあわせ、ヨーロッパ諸国においつき、かれらが発明したかけごとで、かれらをうちまかした。

 開国とともに始まる明治天皇とその時代をネルーは驚きの表現で埋める。

  皇位を嗣いだばかりの天皇ムツヒト(睦仁)は、十四歳の少年であった。 一八六七年から一九一二年までの
四十五年間、かれは皇位にあった。そしてこの時期は明治(啓蒙されたる統治という意味)時代として知られている。日本がばく進をはじめ、西洋諸国を模倣してさまざまな観点から、それらの競争者となったのは、かれの治世のことだ。
この一代のうちにもたらされた、はかり知れない変化はまさに驚異であり、歴史のうえでも、くらべるものがないほどだ。
日本は大工業国となり、西洋諸国の例にならって、帝国主義的掠奪国家となった。日本は、進歩のあらゆる外面的特徴をそなえており、工業にあっては、その教師たちを凌駕しさえしている。人口は急激に増加し、その商船は全地球にあまねく航行するようになった。日本の声は、いまや国際政治の上に重要な意味をもつものとして、世界じゅうの注意をあつめている。

 ネルーは日本がヨーロッパ列強の模倣をして帝国主義的な侵略国家になったことを批判する。それは正しい。
一方で、アジアの可能性を日本の事例に見いだしているのも事実だ。
 それが日露戦争の勝利であった。

かくて日本は勝ち、大国の列にくわわる望みをとげた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時“代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。


 計り知れない変化と激動。それは一世代前までの日本人が生き証人だった。封建時代から近代社会に一夜で転換し、さらに列強諸国と並ぶ帝国を築き、それを敗戦で失い。さらにまれに見る経済復興を遂げる。
 有為転変の最たる事例であろうし、世界史でも類例は少ないのは当然である。こんな変化にさらされて自分自身を見失わないわけがない。それが「日本人論」の根源にある。島国の民族は時代を疾走したのは良いが、よく考えもせずに行動したのだ。


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