サイエンスとサピエンス

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確率の哲学的な解釈について

 確率の意味は現代の専門家らは二面性が合意済みとされている。
1) 認識論的確率 信念の度合いや論理説を含む主観的確率。
2) 客観的確率  自然科学で起きるようなランダム事象に当てはまる確率。偶然的(stochastic)確率ともいう。

 有名なイアン・ハッキングの発言だ。
「確率はヤヌスの顔をしている。一方で統計的であり、偶然のプロセスに関わる。他方で知識に関わり、命題に対する信念の度合いを理にかなった仕方で評価するためにある」

 このように二分化されているが、もともとは20世紀はじめに幾つもの学説を生み出した。
この方面の権威であるドナルド・ギリースから引用をする(人名は主要な提唱者である)

(1)論理説 ケインズ
 確率とは合理的な信念の度合いである。仮説に対して、また予測において、同じ確証をもつすべての合理的な人間は同じ度合いでそれを信じることを前提とする

(2)主観説 デ・フィネッティ
 確率とはある特定の個人がもつ信念の度合いである。ここでは同じ確証をもつすべての人間が同じ度合いで信念をもつとは前提されない。考え方の違いが許容される。

(3)頻度説 ミーゼス
 同じ事柄の長い系列において、それが起こる一定の有限な頻度を確率とする。

(4)傾向説 カール・ポパー
 確率とは繰り返される一連の条件に内在する傾向である。例えば、ある結果の生じる確率がpであるとは、ある条件が何度も繰り返される場合にその結果の生じる頻度がpに近づくという性質を、その条件自体がもつと考える。

 上記のケインズはあの経済学者だ。処女作が『確率論』という一種哲学的考察だったのだ。夭折の天才のラムジーがここでも鋭い批判をものしている。いずれにせよ、20世紀初頭のケインズの論理説とともに確率の哲学的探求がスタートしたのは示唆的だ。
 二番目の主観説はベイジアン統計に影響しているので、無視するわけにもいかない。デ・フィネッティは確率論やリスク理論に必ず登場するベイズ主義の巨頭だ。その主張は過激で「すべての確率は主観的個人的なもの」とする。

 このような解釈学とは別に、確率の数学的体系についてはコルモゴロフが確立している。
公理論的な確率理論だ。しかし、それは理論の構成の仕方だ。大元締めのコルゴロモフも晩年に確率の解釈を試みたが断念したと仄聞する。

 では、そもそも何が問題なのであろう。高等学校で倣ったようなラプラス流では何がいけないのか?

 古典的な立場 義務教育で教えられるLaplaceの「同等な確からしさ」「同等に可能な事象」は「偏ったサイコロの問題を扱うことができるのか」というフォン・ミーゼスのようなありふれた状況で、たちまち行き詰ってしまう。
 完全に対称的な物体でない以上、サイコロは歪みや重心のズレがある。工業製品として十分であってもそれが「同等な確からしさ」を保証していない。つまり、確率計算の前提が成り立っていないわけだ。
 同様な事情が古典期ローマにあったという。不定形ないびつなサイコロがローマ時代には使われていたのだ。アストラガスという名の家畜の小骨をそのままのダイスだ。
イアン・ハッキングは確率論が古代に生まれなかった理由の一つにしている。

【参考文献】

 一癖ある科学哲学者ハッキングの古典的力作

 トドハンターの分厚い歴史もいいが、こちらのほうがコンパクトでよくできている。

 復刊が待たれる専門書

 ラプラスの名著。「ラプラスの魔物」の創案者が確率の権威でもあったというのは面白い。